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スピリチュアルの冒険
(富岡幸一郎、講談社現代新書)


スピリチュアルの冒険スピリチュアルという言葉は、怪しい。昨今、メディアに露出している怪し気な人達のせいだが、本書「スピリチュアルの冒険」は、敢えてなのか、そのスピリチュアルという言葉を堂々とタイトルに冠している。
内容は、そんないい加減なスピリチュアルとは無関係で、スピリチュアルという概念を、現実社会やそこで生きるで人々の変革の可能性として捉え、その具体例を、歴史上の宗教家や思想家、文学者から読み取っている。

冒頭、スピリチュアルという言葉の確認をして、そこから論を進めているのだが、それ以降で書かれている文章に出てくる「スピリチュアル」は、もう少し自由に使われていて、なんとなく曖昧な印象。スピリチュアルって、なんだっけ?と思うようなところもあった。が、その可能性を、個人と社会の二つの観点から整理すると、次のようになるのではないか。
ひとつめの個人については、ニヒリズムへの対抗手段としての可能性。その例として、ドストエフスキーや埴谷雄高等が紹介されている。特に、埴谷雄高については、名前は知っていたが、「存在の革命」なんて、そんな不可能を目指していたとは初めて知った。
もうひとつは、具体的な社会問題の解決への手段としての可能性で、こちらは、ナチズムと闘ったカール・バルトやヘッシェル等が引かれている。初めて知った名前だけど、ヘッシェルとは、ユダヤ教思想をバックグラウンドに持った哲学者で、以下の引用がいい。

「文明が進歩するにつれて驚きの感覚はほとんど必然的に衰えていく。この種の衰弱はわれわれの精神状態の危険を知らせる症状である。情報不足から人類が滅びることはない。滅びるとすれば理解力の不足が原因である。われわれの幸せの萌芽は、驚きなき生は生きるにあたいしない生であることを理解することにある。われわれに欠けているのは信じようとする意志ではなく、驚こうとする意志である」(P.222)

ハイデガー=存在神秘の哲学」にあるのと同様の問題意識なのだが、改めて、この引用を読んで、スピリチュアルの可能性とは人間中心主義の乗り越えの可能性であり、これが、本書の通奏低音になっているのではないかと思った。

新規作成(08/4/6)

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