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空海の思想について
(梅原猛、講談社学術文庫)


空海の思想について先日、本屋を覗いた時に、たまたま、「空海の思想について」が目についた。先日、「日本の霊性」を読んだばかりで、同じ梅原猛の著作ということで、気になった。同時に、以前、司馬遼太郎の「空海の風景」を読んだ時、空海の思想面への言及が少ないなと思い、少々、不満に感じたことを思い出したこともあり、本書を持って、レジに向かった。薄いので、すぐ読んでしまうだろうというのもあった。
が、読んでみると、引用文に現代語訳や説明がない部分が多く、原文を理解できるだけの基本的な知識がない自分は、多分、理解度は低いのだろうなと思いつつページを捲っていった。

全体的な趣旨としては、梅原猛らしい、ざっくりとした分かり易い内容。密教の本質を一言でいうと、世界肯定ということにあるらしい。

「世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。」(P.57)

「密教は、何よりも、強烈な生命力を説く仏教である。それは永遠に否定の深淵に人間をおきざりにすることを好まない。もう一度人間に、生命の歓喜の歌を歌わせねばならぬ。...密教の世界は五彩の世界である。五彩の世界も、原色の五彩の世界である。それは、まことにケバケバしい色の世界である。なぜに、そのような色の世界が必要であるか。それは五彩の色を通って、世界万歳、感覚万歳を叫ばれんがためである。すべての色の世界、すべての感覚の世界をもっているもの、それが大日如来である。そして、その大日如来と一体となる、それが密教の行の意味である。...」(P.108)

全てのものは六大(地水火風空識)から成り立ち、全てのものは全てのものをその内面に宿している。そして、その中心には大日如来がいる。
一方の我々人間も、本来は、同様に全てのものを宿している。なので、大日如来を引き入れることもできる。「...自己というものは、外に大きな窓があいていて、そこから、あらゆるものが入ってくることが出来るモナドといってよいであろう。」(P.67)
ただし、普段は、小さな自我にとらわれていて、それが分からない。しかし、そのような小我を離れ自己の本質に目覚める時、そのままで、即身成仏できるのである。あの世や来世を待つ必要はない。この世界で、そのまま、仏になれるのである。
「空海の風景」を読んだ時、空海って、宗教家には相応しくない、明るい前向きな人だなぁと思った。宗教家というよりは実業家という感じで、実際、土木工事や学校の開設等の事業を行い、そのような伝説も多い。イメージとして、空海の生地は讃岐なので、ちょっと違うのだが、四国の太平洋側の明るい太陽が思い浮かぶ。
思想も、人格と同様で、「...世界の諸仏は皆笑い、とりわけ、大日如来が大声で笑っている。空海もともに笑って、笑いによって大日如来と一体になっている。」(P.117)というような箇所もあり、四国の明るい太陽と青い海という感じ。そうか、「空海」は、空と海だもんなぁ。
加えて、その汎神論的で肯定的な点を考えると、他力系の仏教と比べて、意外と現代性があるなとも感じた。

そして、もうひとつ、興味深かったのが、言葉に対する考え方。

「密教は世界をその表現の相においてとらえる。この表現というのが声字である。声字の声というのは、ただの声ではない。すべて、われわれが感覚でもってうけとることの出来る世界の告知はすべて、声なのである。密教は表現的世界を重視する。...しかも密教は、この表現的世界が無限に深い意味をもっていることを強調する。われわれは、表現的世界を通じて、世界を把握する。しかし、その表現的世界はあまりにも深い意味をもっていて、いくらわれわれがそれを把握しようとしても、常にわれわれの指から漏れるのである。...密教はこの深い意味をもった表現的世界に肉薄しようとする。」(P.74)

現代人ならば、普通、言葉というものは人間が作った恣意的な体系で、その中に、真理があるなどとは考えない。が、空海は、そこに、深い意味があるとして、言葉や文字の隠された意味を探求している。真言密教の「真言」の意味を初めて知った。

なお、人間の側面としての空海に関しては、前半に少し説明があるだけなので、「空海の風景」と合わせて読むといいと思う。

新規作成(08/2/2)

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