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華厳の思想
(鎌田茂雄、講談社学術文庫)


華厳の思想法華経の次は華厳経ということで、「華厳の思想」を読んだ。

文章は非常に平易に書かれている。が、内容は、華厳だけでなく、禅や法華経等の他の仏派に関する記述も多い。筆者の博識の成せる技なんだろうけど、そのために、読み終わって、「で、結局、華厳って何なの?」と思ってしまった。
もちろん、華厳自身の説明が中心なのだが、そういう部分は、かなり細かい話が多い。一方、その割には、他の仏派との比較を含めた俯瞰図がないために、華厳の特徴がよく見えない。
「華厳思想の核心」という章では、華厳宗の教相判釈について、華厳宗の大成者である法蔵の著作「華厳五教章」の説明にかなりのページを割いているが、これは、当然、華厳が最高の教えということになる筈。そうでなくて、現代の視点から見た、華厳の位置付けが知りたいんだよなぁ。

また、日本における華厳経の影響についても、ボリュームが少なく、内容も明恵に偏っている。冒頭、華厳は日本人の自然観の中に定着し、華道や茶道の理念にもこの精神は生きているというようなことが書いてあるのだが、そのような内容が、それ以上、深められるところはない。朝鮮における華厳の動向に章を割くよりは、日本の記述をもっと充実してほしかった。

まぁ、それでも、本書によって、華厳の要点をまとめると、以下のようになるのかな。
まづ、華厳経の中では、「十地品」、「入法界品」、「性起品」の三品が中核になる。十地とは、「...大乗仏教の菩薩が、究極の悟りに到達するための修道の過程を十段階に整理したもの...」(P.61)であって、入法界品は、善財童子という主人公がその実践を行い、究極の悟りを完成するのを描いた物語。そして、十地品・入法界品の哲学的裏付けが、性起品という位置付けになる。
性起とは、仏性現起の略で、これは、あらゆる衆生に仏性がそなわっているということだが、華厳経に独特の教えではなく、涅槃経や法華経でも同じようなことを言っている。違いは、涅槃経や法華経では現実性にウェイトを置く一方で、華厳経は本来性にウェイトが置かれる。つまり、涅槃経や法華経では、修行によって仏性をあらわすことが重視されるが、華厳経では、一切は仏性のあらわれとして輝いており、悪や迷いは仮の存在であるとされる。そうなると、修行は不要のものになってしまう。つまり、華厳は、実践よりも、哲学的な側面が強い。なので、実践面では、「はじめて信をおこすときに、すなわち正覚を成す」(P.108)となり、修行の積み重ねではなく、発心したら、もう、それが悟りなのであるということになる。
そして、もうひとつのポイントは、「一即多・多即一」。微塵の中に大きな世界が全部入り込んでしまうという考え方。これは、日本の華道や茶道に通じる世界らしい。

もちろん、イマイチ、趣旨が分かりにくいとはいえ、得るところはあって、ひとつ目が、やっぱり、仏教は、言語以前の主観に関する洞察が充実していること。
道元の「山は山なり。山は山に非ず。山は山なり。」、維摩経の「維摩の一黙」、大乗起信論の「言説の極、言に依って語を遣る」という文言は、その辺りの事情を表している。

そして、本書最大の収穫は、「事事無礙法界」という考え方。
華厳には、四種法界という教えがあって、事法界、理法界、理事無礙法界に続く四番目が、事事無礙法界になる。事法界というのは物質世界のことで、理法界とは法則(=空性)の世界であり、理事無礙法界とは法則が物質世界に現れている世界ということ。
そして、「山はどこまでいっても山、川は川、人は人で、みんなつながらない。ところがひとたび山に対しても川に対しても愛着をもったり意志をもったりすると、山と人が一つになっていく、人と川も一つになっていく。それを事事無礙法界と呼ぶわけである。」(P.192)
理事無礙法界、つまり、空とそれの世界への現れを会得し、その上で、改めて世界を見直すと見えてくるのが、事事無礙法界。自我の境界が曖昧になり、流動化し分散していく。そして、世界の諸対象と自分との関係も境界を失っていく。
「事法界の場合は山も、川も、人間も、花も、みんなばらばらにある。事事無礙法界から見ると、私が花で、私が川で、川が私で、山が私なのである。」(P.194)
筆者は、この境地を非常に難解なもののように書いているが、これは、自然と直面して生活してきた日本人にとっては、それ程、違和感がない考え方ではないだろうか。
例えば、タイマグラばあちゃんは、この境地に近いところにいたのではないかと思うのだが、どうだろう。

新規作成(08/2/12)

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