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禅とオートバイ修理技術
(ロバート M.パーシグ、めるくまーる)


□第四部

禅とオートバイ修理技術ストーリーが進むに連れて、主人公の心の中で、次第に、パイドロスの影が強くなってくる。自分の中にもう1人の別人がいるかもしれないというのは、恐ろしい感覚だと思う。次第に、悪夢を見る回数が多くなってくる。

エドワード・ホッパーというアメリカ人画家に、「線路の日没」というタイトルの絵がある。この絵を一目見て、これこそ、筆者親子が見た景色ではないのかと閃いた。その絵は、こちらのページにあるが、アメリカらしい、広大で荒涼とした土地を感じさせる夕暮れの景観が描かれている。本書には、夕暮れを描いたシーンは無かったように思うので、この景色そのものを思い浮かばせるような文章があるわけではないが、いかにもアメリカ然とした景色が、筆者親子のツーリング・シーンに相応しい。
が、それだけではなく、この絵は、心に何か不安を抱えている人が見ている景色のようで、どこか不気味なところがある。まさに、筆者の恐怖感が、この絵を本書にふさわしいものにしているのかもしれない。

第四部では、さらなる<<クオリティ>>の探求のために、古代ギリシャの思想まで遡ることになる。
科学の大成功によって圧倒的な地位を占める様になった古典的な理解はどのようにして今の地位を築いたのか。また、<<クオリティ>>は、西洋世界の中で、何故、忘れ去られてしまったのか。
それを知るために、パイドロスは、ギリシャ思想を、その始まりである神話から辿って行く。

「<<クオリティ>>こそが神話の産みの親なのだ。かつてパイドロスが「<<クオリティ>>とは、私たちに生きる世界を創造させる連続的刺激である」と言ったのは、まさにこれを言わんとしていたのだ。...人間は<<クオリティ>>に対してさまざまな反応を示す。そしてこれらの反応のなかにこそ、自己の本質的理解がある。」(P.577)

<<クオリティ>>を解釈し、それを説明するために作り上げられた世界を、ストーリーとしたものが神話になる。人類は、次々と与えられる外的刺激を意味付けるために、そこに人間的な意図や行為を読み取り、人格的な要素を含む神々を創造し、それらが外的自然を司っていると考えた。そのような説明を含んだストーリーが、何代もの間に蓄積・整理され、一定の形を持ったものが神話である。

ところが、イオニア地方の合理的精神を持った一部の人々が、神話に対して異議を唱え始めた。

「初期のギリシャ哲学は、人間世界の不滅の部分に初めて意識的な探りを入れた。そのときまで、それは神々の世界、すなわち神話の世界にあった。しかし周囲の世界に対するギリシャ人の客観性が大きく成長した結果、抽象化の能力がますます増大し、彼らは古いギリシャ神話を真理の啓示ではなく、芸術的創造とみなすようになった。そして世界のどこにも存在しなかったこの意識が、ギリシャ文明にまったく新しい超越の段階をもたらしたのである。...永遠なるものは、もはや不滅の神々だけの領域に存在するものではなかった。それは「不滅の原理」のなかにも見いだされた。万有引力の法則は、まさにその一つである。」(P.611)

イオニアの思想家達は、人格的な神ではなく、何らかの抽象的な原理で世界を説明しようとした。タレスは、その原理を水とし、ヘラクレイトスはそれを火とした。思想家によって、その原理の内容は異なるが、ここで肝心なことは、永遠に変わらない抽象的な原理で世界が説明できると考えたことだ。現在の物理学では、相対性理論や量子力学等の数学的体系で世界を説明している。一方は、水や火といった生活に密着した要素、一方は精緻な数学とその形式は異なるが、抽象的な原理で世界が説明できると考えている点は変わらない。というか、逆で、物理学の根本的な考え方は、この初期ギリシャ自然学にある。引用文中に、万有引力の法則とあるのは、そういうことである。ただし、パイドロスによると、この時点では、精神と物質、主体と客体、形相と実体という区別はなかったという。(P.613)

さて、次に登場するのがソフィスト。

「(ソフィストが)教えようとしたものは、原理ではなく、人間の信念であった。その目標は唯一絶対の真理ではなく、人間の教化だったのである。すべての原理、すべての真理は相対的であり、「人間は万物の尺度である」と彼らは説いた。」(P.614)

水やら火やら言っているが、そんなものは人間の恣意的な想像の産物で、そもそも、不滅の原理などは存在しないというわけである。
ところで、パイドロスは、ソフィストに組している。これまで書いてきたように、パイドロスは絶対的真理を否定している。全ては、<<クオリティ>>に対する人間の解釈であって、そもそも絶対的な実在があって、それを人間が知るのではない。

「「人間は万物の尺度である」そう、これこそパイドロスが<<クオリティ>>に関して述べていることである。...人間は万物の根源ではないし、...万物を受動的に観察する存在でもない。世界を創造する<<クオリティ>>は、人間とその経験の相互関係から生まれる。つまり人間は万物の創造に関与するわけだ。万物の尺度であるというソフィストの説とうまく一致する。」(P.615)

ここで、ソクラテスとプラトンが登場する。ソフィストのこの相対主義と戦ったのが、彼らだったのだ。

「プラトンとソクラテスは、ソフィストの堕落に対抗することによって、...「不滅の原理」を擁護したのである。すなわち、真理、知識、思考から独立したもの、ソクラテスが殉じた理想、世界の歴史においてギリシャのみが初めて有した理想、これらが擁護の対象であった。」(P.614)

特に、プラトンは、イデアという装置を発明し、この戦いに勝利を収めた。

「...プラトンはイデアと現象を分ける必要性を感じた。たとえば「馬を馬たらしめるもの」と「馬」を例にとれば、前者は実在する不変不動のイデアであるのに対し、後者はまったく些細な移ろいやすい現象にすぎない。「馬を馬たらしめるもの」は純粋なイデアであり、目前の「馬」は変化するさまざまな現象の一集合なのだ。だから絶えず変転する世界で自由に動きまわれる馬が突然死んだとしても、馬を馬たらしめているイデアには何の影響もない。つまり「不滅の真理」である。」(P.624)

勝ち残った「不滅の原理」つまり絶対的真理という概念は、以後、今日に至るまで西洋的思考を支配し続けている。

さて、ここまでのソフィストとソクラテス・プラトンの戦いは、正しい/間違っているという真理の問題についてだった。パイドロスによると、もう一つの対立軸があって、それは、良い/悪いという善の問題である。
ソフィストは、単に、懐疑的な相対主義を唱えていただけではない。積極的に訴えていたものもあった。それが徳である。

「どの書物に当たっても、徳を教えることがソフィストの中心的な仕事になっていた。だがあらゆる倫理的観念の相対性を説きながら、どうやって徳を教えようというのか?...そもそも何が適切かという考えが日ごとに変化する人は、寛大だと感心されることはあっても、有徳だと思われることはない。」(P.616)

「人間は万物の尺度である」ならば、絶対的に正しいものなどない。そうだとすれば、そもそも、徳などというものが存在するのか。ましてや、それを誰かに教えることなどできるのか。そこで、パイドロスは、命を惜しまず勇敢に戦うギリシャの英雄ヘクトールの生き方に注目する。

「ギリシャの戦士を英雄的な行為へと駆り立てるものは、今日私たちが理解しているような義務感ー他人に対する義務ーではない。それはむしろ自己に対する義務感である。ヘクトールが必死になって追い求めているものは、一般に『徳』と訳すが、それはギリシャ語でアレテー、つまり『優れていること』(引用者注:excellenceの翻訳)という意味である。」(P.618)

現代の我々が、一般的に、徳(virtue)という場合、その言葉には、世の中の決まりをよく守ること、つまり他人に対する義務をよく遂行するという意味合いが含まれている。ところが、徳と訳されるギリシャ語のアレテーという言葉には、そのような他者に関する含意はなく、あるのは、自己に対する義務感だということである。そして、パイドロスは、アレテーとは、<<クオリティ>>のことだと言う。

「<<クオリティ>>!徳!ダルマ!ソフィストが教えていたのはこれだったのだ!倫理的相対主義などではない。原本的(引用者注:pristineの翻訳)な「徳」でもない。それはアレテー、優れていること、ダルマだったのだ!」(P.620)

以前書いたように、<<クオリティ>>を、人間の知性の自発的な働きとは関係なく、何処からかやって来る心的な出来事と考えると、人間は、日々の生活において、<<クオリティ>>を前に、その解釈、意味付けを行い続けることになる。そして、その意味付けによって善きものや価値が発生し、何らかの行動をすることになる。ところで、この意味付けの原則が倫理になるのだが、それは、本来、人によって異なるはずである。才能も境遇も欲しいものも違う個人が、同じ価値や倫理を持つ筈がない。なので、倫理は人によって異なる相対的なものになる。が、それは、悪いことではない。重要なのは、出来事としての<<クオリティ>>に誠実に向き合い、自分なりの意味付けを行い、その結果としての行動を、義務感を持って忠実に遂行することである。(ちなみに、本書の副題の「価値の探求」は、このような<<クオリティ>>と価値との強い関係からつけられたのだと思う)
このように、善きものや価値においては、万人に妥当する唯一のものは存在しない。それは、人によって異なる相対的なものなので、大仰な名前を付けることはできない。これが、アレテーという言葉が、優れていることという、なんとも頼りない程、漠とした意味しか持っていない理由である。
ソフィストは徳を教えていたのではない。アレテーを教えていたのである。アレテー=徳と考えたところに問題があった。アレテー=<<クオリティ>>なのである。こう考えると、アレテーと倫理的相対主義は矛盾しない。

さて、一方のソクラテスとプラトンは、上にも書いたように、「不滅の原理」を支持していたので、善については次のように扱った。
絶対的な真理があるのだから、善はそこから導き出される筈である。従って、善は、「不滅の原理」の下位に位置づけられることになると。

「プラトンの...総合は、ソフィストのアレテーをイデアと現象という二分法に組み込むことであった。彼はアレテーに名誉ある最高の地位を与えはしたが、それは真理とそれに到達する手段である弁証法に次ぐ位でしかなかった。そして「善」を最高のイデアとして、「善」と「真理」の統一を試みながら、結局は弁証法的に限定された真理によってアレテーの王座を奪うことになった。」(P.624)

ちなみに、弁証法とは、「...今日では論理的証明という意味で用いられ、そこには真理に到達する吟味の技法をも含んでいる。また弁証法はプラトンの『対話編』におけるソクラテスの問答形式でもあった。プラトンはこれを真理に到達する唯一の方法であると信じていた。」(P.601)
一方、弁論術という方法もあり、こちらは、論理ではなく比喩等を使って情緒的に訴える方法になる。パイドロスは、もともと、大学で弁論術と近しい修辞学(どちらも、英語でrhetoric)を教えていた。<<クオリティ>>は、言葉で定義できないため、その説明の方法としては、修辞学的な方法を使うことになる。ここに、パイドロスが<<クオリティ>>に到達したひとつの理由があり、実際、修辞学への洞察から<<クオリティ>>に至る過程が、第三部で描写されている。

さて、このようにして、プラトンは、「不滅の真理」の存在を信じ、その内実を、不変のイデアと変化する現象、哲学用語で言うと、形相と質料への分離と形相の優位性とした。次の世代のアリストテレスは、質料を形相に優るものとし、質料を実体として、それらの位置付けを逆転したが、プラトンと本質的な違いがあるわけではない。
そして、中世ヨーロッパにおいては、「不滅の真理」は神とされ、その後、「不滅の真理」が数学的表現を得ることにより近代科学が発生することになる。
一方の<<クオリティ>>は、ソフィスト達とともに、忘れ去られてしまった。本書には書かれていないが、仮に、それを発掘したのがニーチェだとすると、それまでに、2000年以上の歳月がかかったことになる。

「人間が弁証法的な真理によって世界を理解し、支配する力を得たときに、あまりにも大きなものを失ったことに気づき始めた。人間は自然現象を操作することによって、力と富という人間自身の夢を現実のものにできる科学帝国を築き上げた。だがこれと引き換えに、それと等しい悟性(引用者注:understandingの翻訳)の帝国を失った。すなわち悟性が世界に敵対するものではなく、その一部であることを認識できなくなってしまったのである。」(P.621)

世界が形相と質料に分離され、質料が実体とされたことにより、自然は、人間の操作の対象としての単なるモノへと化した。人間と自然は対立し、自然は、人間の手段として克服されるべきモノに成り下がった。そして、弁証法的な古典的理解によって造られた堅苦しい人工物が、人間の新たな「自然」となった。そして、人さえも、モノへと化していく。
ホッパーのこの絵が相応しい、都会の堅さ、味気なさ、窮屈さ、孤独さが、ソクラテス・プラトンに始まった西洋的思考の結末である。

「シカゴの街が彼に迫ってくる。...鋼鉄の板、太い梁、コンクリートの柱と道路、煉瓦、アスファルト、自動車の部品、ラジオ、線路、そしてかつて大草原で草を食んでいた動物たちの形骸。<<クオリティ>>のない形相と実体。それが都市の塊である。巨大、盲目、邪悪、非人間的ーこれがシカゴ南部に集中する溶鉱炉から立ち昇る炎に照らし出された都市の姿である。道路は縦横にまっすぐ走り、石炭の濃く、深い煙を通して、「ビール」や「ピザ」や「コインランドリー」といった何の意味もない看板がたくさん見える。」(P.647)
「...人口が密集している大都市ほど孤独感が強い。一般的には、...きわめて人口密度の低い州ほど孤独感が強く漂っていると思うだろう。だが、実際はまるで逆で、こうした片田舎で孤独な人を見かけることはほとんどなかった。...このアメリカに巻き込まれてしまった人々は、周囲の状況をあまり意識することなく、人生の大半をだた素通りしていく。マス・メディアのおかげで、身近なものはすべて取るに足らないものと人々は信じ込んでしまったのだ。」(P.586)

パイドロスの探求は、このように、古典的な理解とロマン的な理解の分離とそれによってもたらされる諸問題の淵源をプラトンに発見することで終わる。そして、パイドロス自身も、狂気へと落ちていき、電気ショック療法によって、その一生を終える。

本編
ネット上の関連情報
第一部 〜 古典的な理解とロマン的な理解
第二部 〜 科学は本当に正しいのか
第三部 〜 <<クオリティ>>の探求

雑記より移行(07/2/28)

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