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禅とオートバイ修理技術
(ロバート M.パーシグ、めるくまーる)


□第三部

禅とオートバイ修理技術第三部は、ドウィーズ宅近くでの登山から始まる。ドウィーズ宅で2日間過ごした後、友人夫婦のジョンとシルビアは自宅に帰り、その後は、著者とクリスの親子旅となっている。登山をする前には、2人の行き先は決まっていなかったが、登山の間に、著者が海を見たくなり、西海岸にハンドルを向けることになる。
この部では、<<クオリティ>>の探求が中心となり、それが登山と並行して行われるので、オートバイ・ツーリングに関する記述は少ない。また、山頂に向かい高度が上がるに連れて、<<クオリティ>>の探求も、抽象の高度が上がるため、難解になる。

さて、それでは、<<クオリティ>>とは何だろうか。その説明と思われる箇所を幾つか抜き出してみる。

「<<クオリティ>>は事物ではなく、事象(イベント)である。」(P.402)
「ただ連続する時間の一瞬、つまり事物が識別される前のほんの一瞬間には、知性を伴わないある種の知覚作用があるはずで、これを<<クオリティ>>の直感的認識と呼んだだけである。たとえば、木を見たと知覚できるのは、その木を見た後のことなのだから、見た瞬間と認識する瞬間との間には、必ず時間のずれが生じる。...知的に認識された木は、その時間のずれのため、常に過去から出ることはないので実在しない。知的に解された事物は何であれ、常に過去のなかにあるので、実在しないのだ。実在とは、知性的な処理を受ける前の、見たというその瞬間なのである。これ以外に実在はない。パイドロスが確認した<<クオリティ>>は、まさにこの前知性的な実在なのだ。」(P.415)

この引用からは、<<クオリティ>>とは、人間の知的行為の対象となる「素材」のようなものと考えられる。但し、この「素材」は、知性による処理を受ける前の、心にある何かなので、事実上というよりは権利上、その存在が想定されるものになる。つまり、何かを見たり、聞いたり、触ったりする際には、知性による解釈の前段階として、知覚作用により、「素材」となる何かが自分の中に取り込まれている必要があるということ。知性が働くためにはその対象がある筈で、そういう意味で、その存在が想定されるが故に、権利上の存在ということになる。事実的な存在として、明示できるものではない。多分、ベルクソンの言う純粋知覚のようなものだと思う。

この辺りを、アメーバを使って説明している箇所がある。

「『<<クオリティ>>とは、一個の有機体が示すその環境への反応である』と言えば、一般の人々にも、真の<<クオリティ>>に関する知的な喩えとしてきわめて理解しやすいだろう。...たとえば、アメーバを水の入った皿にのせ、そばに一滴の硫酸をたらすと、(おそらく)アメーバは酸から離れる。もしアメーバが言葉を話せれば、硫酸のことは何も知らずに、「この環境はクオリティが乏しい」と言うだろう。もし神経系があれば、そのクオリティの乏しさを克服するために、かなり複雑な行動をとるだろうし、また以前の経験からいろいろな類似物ーイメージやシンボルーを探し出し、その環境の不快な性質を定義づけて、それを理解しようとするだろう。...<<クオリティ>>とは、私たちが生きる世界を創造するために環境が与える連続的刺激なのだ。」(P.421)

「もし神経系があれば」以下は人間のことを言っていると思うのだが、刺激または純粋知覚としての<<クオリティ>>を、知性が、その手段である言語(シンボル)やイメージにより解釈・意味付けを行う。つまり、<<クオリティ>>とは、全ての人間の積極的な知的行為に先んずる出来事(イベント)ということになる。
そうなると、<<クオリティ>>とは、人間にとって、全ての認識に先立つ根源的な何かであり、主観と客観さえも、<<クオリティ>>から発生することになる。出来事としての<<クオリティ>>に対して、知性が理解を行い、その結果、主観や客観が出来上がる。

「知的に確認された事物はすべてこの前知性的な実在から生じるので、<<クオリティ>>はその母であり、あらゆる主観と客観の根源なのである。」(P.416)

となると、<<クオリティ>>は、主観、客観が出来上がる前の何かであるために、理性による定義はできず、分析もできないということになる。

「だから、私たちに世界を創造させた源であるその存在を取り上げて、この世界に閉じ込めてしまうことなどとうてい不可能なのだ。<<クオリティ>>を定義することなどできることではない。無理矢理定義したとしても、決して<<クオリティ>>そのものを定義したことにはならない」(P.422)

このため、本書の残りの部分では、<<クオリティ>>は、『老子』の<<道>>や『ウパニシャッド』の「そは汝なり」、禅や無といった東洋哲学のキーワードで例えられることが多くなる。

以上のような<<クオリティ>>の高度な抽象化は、筆者親子の登山が頂上に到達したところでピークを迎え、次に、下山に合わせて、より日常的なシーンでの<<クオリティ>>の探求が進んで行く。
この探求でも、第二部に引き続き、古典的な理解、つまり、理性の働きに重点が置かれる。
ここでは、著名な数学者であるポアンカレが、自身が数学上の大発見をした時の経験を書き、またその発見という行為は一体何なのかを考えた書物に基づき説明が行われている。

「発見者の真の仕事は、さまざまな組み合わせのなかから巧みに選択することによって、無用なものを消去したり、あるいはむしろそうした組み合わせを作る煩瑣な手続きを省くことにある。だが、その選択を導く法則はきわめて微妙で繊細なので、言葉をもって正確に述べるのはほとんど不可能であろう。公式化するよりは、むしろ感じとるべきものなのである。そこでポアンカレは、この選択がいわゆる「閾下自我」によって行われるという仮説を立てた。この存在は、パイドロスが前知性的な気づきと呼んだものとピッタリ符合する。ポアンカレは、「閾下自我」は一つの問題に対して非常に多くの解答を見つめているが、意識のなかに入ってくるのは興味を引くものだけであると述べている。数学上の解答は閾下自我によって選択されるが、そのよりどころは「数学的美」、数と形式の調和、幾何学的優雅さにある。」(P.447)

ここで書かれている閾下自我による選択とは、勘や閃きのようなものを言っているのだと思う。つまり、数学のように高度に論理的な体系を成しているものであっても、その体系の起点となるところには、勘や閃きのような非合理的な何かが関与しており、しかも、そこには、美や調和や優雅さと言った、「価値的」なものがあるという。明記はされていないが、この勘や閃きも、また、<<クオリティ>>としての出来事と言うことができるようだ。

さらに日常的な世界では、オートバイの修理を例にして、<<クオリティ>>の考察を行っている。バイクのサイド・カバーのネジが外れず、ネジ溝を崩してしまった場合、どうすればいいのだろうか。

「ただじっと坐って、「観察」しているしかないのだ。...事実を求めてひたすら観察し続けるか、あるいはなすすべもなく長い間じっと手をこまねいているしかないのである。...ポアンカレが指摘したとおり、確かに観察するさまざまな事実から閾下の選択をしなければならないのだ。修理工の優劣の差は、数学者のそれと同様、さまざまな事実のなかから<<クオリティ>>に基づく優れた選択ができるかどうかにある。」(P.470)
「行き詰まって、心が無になった状態を再び考えてみると、それは最悪の事態どころか、願ってもない機会に遭遇したのである。何と言っても禅の修行僧は、公案や座禅によって多くの困難に直面し、みずからこの行き詰まりを招き寄せている。心を空しくすることによって、「初心」に帰り、「柔軟さ」を得るのである。」(P.476)

ひたすら観察をしていると現れる勘や閃きのようなものが、溝を崩してしまったネジへの対処方法を教えてくれる。心を無にして思い続けることにより、答えが与えられるのを待つということ。(ちなみに、喩えとして禅が持ち出されているが、「禅とオートバイ修理技術」というタイトルの意味はここで分かることになる)
ところで、古典的な理解の世界、つまり、理性の働きに閉じこもっていては、このような勘や閃きは生まれて来ない。

「...主体と客体という永遠の分離がなされると、それぞれの存在に対する考え方はしっかりと固まるが、「ネジ」という一つの部類が作り上げられることによって、それが冒すべからざるもの、目前の現実よりももっとリアルなものになってしまう。その結果、いかにしたら行き詰まらないですむかを思案することができなくなってしまう。」(P.478)
「...問題の根底に横たわっているものは、「客観性」つまり実在を主体と客体に二分する原則を強調し続けてきた合理性にあると思う。...二元的なものの考え方をすることによって、私たちは常に現実の上に人為的な解釈を重ね合わせてきた。結果的にそれは現実そのものからはるかに遠のいてしまった。こうした二元性を完全に受け入れてしまうと、修理工とオートバイとの間に存在する分離できないある一定の関係、つまり仕事に専心する職人気質といったものが失われてしまう。」(P.470)

上にも書いたように、<<クオリティ>>は主体と客体に先立つ出来事である。従って、<<クオリティ>>まで遡ることができれば、目の前の物体を、「連続する直接的経験」(P.478)に変え、硬直した「ネジ」というカテゴリーから解き放つことが可能になり、溝が潰れてしまったという問題に対処することができるようになる。そうすれば、溶剤を流し込むとかドリルを打ち込むといった対処法が思い付く筈だ。
日常的な言い方を使えば、何においても、常識に囚われない柔軟さが大切ということになるだろう。が、そう単純な話でもない。
ここで言っている常識とは、言葉や理性が作り上げた概念や体系(これまでの例だと、概念→鋼鉄、体系→物理学や論理学)のことになる。
現代においては、科学の大成功によって、理性が神のように祭り上げられ、理性の産物の概念や体系が絶対的な地位を占めてしまった。その結果、環境問題や社会的な様々な問題が発生しているように思われる。しかしながら、理性の産物は、説明可能という意味での明確さのために分かり易い一方、それが故に硬直化しており、理性をこのまま使うだけでは問題の解決はできない。「現代社会における危機の原因は、理性それ自身の本性に潜む遺伝的欠陥」(P.205)なのである。
そこに柔軟さを持ち込むのが、理性に先立つ出来事としての<<クオリティ>>である。典型的な理性の産物である数学でさえ、ポアンカレの例で説明された通り、根底には、勘や閃きといった非理性的な要素が含まれていた。実は、普通に言われている理性というのは、本来の理性全体の中の狭い範囲だけを指しており、ポアンカレの数学のような美や調和を持った体系を生み出すような理性は、非理性的な要素も含んでいるのだ。
この方向に、理性を拡大すること。つまり、<<クオリティ>>により古典的な理解(狭い範囲の理性)とロマン的な理解を統合することによって、柔軟さを取り戻し、問題の解決を図ろうというのがパイドロスの行程になる。

ところで、ここまで進んでくると、<<クオリティ>>の概念が、最初の純粋知覚のようなものから、勘や閃き等の無意識的な出来事にまで、その内容が広がってくる。そうすると、<<クオリティ>>って何だっけ?という気もしてくる。
が、人間の知性の自発的な働きとは関係なく、あたかも与えられたもののように、何処からかやって来る心的な出来事とすれば、大雑把に括れると思う。つまり、知性によって自ら行う分析や総合といった働きではなく、心の中に、理由はよく分からないまま発生するために、常に、驚きや不思議さが付きまとうもの。また、自分から積極的に作り出すことができないので、そういう意味では客観性を持っているものということだ。
まぁ、それにしても、<<クオリティ>>の内容は練れていないように思われる。実際、「Lila: An Inquiry Into Morals」という本で、引き続き、<<クオリティ>>が探求されているようだ。

ちなみに、<<クオリティ>>は、二種類の人間の理解に伴い、二つの相に分けられるとある。

「ロマン的な<<クオリティ>>は、常に瞬間的な印象と相関関係があった。また「堅い」(引用者注:=古典的な)<<クオリティ>>には、ある一定の時間にわたる多様な考察が必然的に伴っていた。ロマン的な<<クオリティ>>は、現在ーあらゆる事物の今、ここーであった。古典的な<<クオリティ>>が関係するのは、現在だけではなく、より広範に及び、そこには常に過去と未来があった。」(P.417)

ただ、この二つの側面は、<<クオリティ>>が分裂したものではなく、<<クオリティ>>の長短二つの時間相とされる(P.418)。上にも書いたように、<<クオリティ>>は、言葉による分析が不可能なため、二つに分類されることはない。そうではなく、いろいろな観点に応じて様々な見え方がする中で、このような二種類の見え方があるということだと思うのだが、ここら辺は、よく分からない。
ちなみに、「赤を見る」という本では、人間の「知覚」と「感覚」(「赤を見る」では、知覚と感覚という言葉が、ここまでの話と違って使われているため括弧付けをしている)に依存関係はなく、両者は事実に対して並列的に発生するという。だとすると、「知覚」に相当する<<クオリティ>>が古典的な<<クオリティ>>、「感覚」に相当する<<クオリティ>>がロマン的な<<クオリティ>>という気もする。

さて、堅い話が続いたので、最後に、以下のシーンを引用しておこう。

「...レストランが見えたので、その正面にバイクを乗り入れ、旧式のハーレーの横に止める。手製の荷かごを取り付けたハーレーのオドメーターは三万六千マイルを示している。なかなかのロングツアラーだ。」(P.452)

そうそう、他の人のオートバイの走行距離って気になるんだよねぇ。

本編
ネット上の関連情報
第一部 〜 古典的な理解とロマン的な理解
第二部 〜 科学は本当に正しいのか
第四部 〜 パイドロスと筆者親子の運命

雑記より移行(07/2/28)

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