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禅とオートバイ修理技術
(ロバート M.パーシグ、めるくまーる)


□第二部

禅とオートバイ修理技術主人公達は、イエロー・ストーン公園を経由して、パイドロスの友人で画家のドウィーズ夫妻宅を訪れる。
2台のオートバイは、公園に入る前に、山岳道路で山越えをしているのだが、その頂上の標高が、なんと、11,000フィート。富士山より、500m程低いだけ。キャブレターのオートバイで走れるのかという感じ。また、当然、気温は低く、頂上の近くでは、12フィートの雪の壁の間を走っている。「ネット上の関連情報」に書いたリンクにある写真を見ると、乗鞍スカイラインのスケールを大きくしたような感じなのかもしれないな。
それにしても、2日前に40度以上の気温の中を走っていることを考えると、かなり、ハードなツーリングだ。

一方のパイドロスの思想に関しては、古典的な理解の方に重点を置いて、探求が進められる。
パイドロスは、古典的な理解に対しては否定的な立場を取っており、それを支える理性に関して、以下のような文章がある。

「現代社会における危機の原因は、理性それ自身の本性に潜む遺伝的欠陥である、とパイドロスならこう言ったであろう。だからこの遺伝的欠陥を取り除かなければ、危機は続くことになる。現代の合理的思考様式は、社会をより良い世界に変えてはくれない。...衣食住の必要が支配するかぎり、今後もこれは続くだろう。だが今や大多数の人々にとっては、衣食住の必要が他のすべてに優るということはない。古代ギリシャより受け継がれてきた理性の全構造は、今となってはもはや妥当なものとは考えられなくなっている。」(P.205)

加えて、理性の最大の成果のひとつと考えられる科学に対しても、その絶対的な真理性を否定している。

「物理学や論理学の法則、それに数の体系や代数置換の原理...こういったものはすべて幽霊さ。信じているからこそ、現実に存在しているように思えるだけだ」(P.74)
「引力の法則は人間の頭のなかにしか存在しないということさ!幽霊なんだ!」(P.76)

ここでは、科学が間違っていると言っているわけではない。もし、科学が正しくなかったら、何故、パソコンやらテレビやら飛行機等が、こんなにうまく動くのか。そういう意味では、科学は正しい。だが、それは絶対的な真理を捉えているわけではないということを言っている。
人類は、これまで、世界を説明する方法を幾つも発明してきた。神話、昔話、宗教、哲学、小説...、そして科学。この中でも、科学だけが、その真理性において飛び抜けているように思える。が、それは、その実用性が他の方法に比べて圧倒的に高いだけであって、だからといって、科学が絶対的な真理性を備えているということにはならない。
ここでは、そういう真理の相対性のことを踏まえて、物理学や論理学、引力の法則を「幽霊」と言っている。
加えて、さらに、パイドロスは、科学だけではなく、我々が日常生活で当り前と思っている通常の概念さえも幽霊としている。

「オートバイは、あらゆる構成概念の集積によって生まれた鋼鉄のシステムである。だが、鋼鉄には本来部分というものはないし、形もない...パイプ、ロッド、ガーダー、工具、部品など、これらはすべて一定の侵しがたい形を持っている。だからもともと形があるものだと思ってしまうのだ。だが、機械製造、鋳造、鍛冶、溶接などの仕事に携わる人は、「鋼鉄」に形があるなどとは思ってもいない。熟練した人であれば、鋼鉄を思いどおりの形にすることができる。形というものは、このタペットのように、人が考え、人が鋼鉄に与えるものなのである。...形はすべて、人間の精神によってもたらされるものなのだ。では、鋼鉄はどうか?何と、鋼鉄ですら人間の精神の産物なのである。自然の中には鋼鉄など存在しない。...自然のなかにあるのは、鋼鉄を生じさせる潜在的な物質である。それ以外は何も存在しない。では、その「潜在的なもの」とは何であろうか?これも人間の精神の産物に他ならない!すなわち、幽霊である。」(P.181)

これは、日常生活では当り前すぎて、実在に対応しているとしか思えないような普通の概念(ここでは鋼鉄)さえも、混沌としたカオスとしての世界から、実用的な目的のために、人間により恣意的に取り出されたものに過ぎないということを言っている。この概念(≒言語)の恣意性は、20世紀の初頭に言語学者のソシュールによって言語の本質とされた。ここから、20世紀の思想が、様々な方向に開花するのだが、そういう意味で、ここでパイドロスが言っていることは特別なことではない。20世紀の思想界では、常識と言ってもいいと思う。(例えば、「ソシュールを読む」(丸山圭三郎、岩波書店))

ところで、このように、筆者は、古典的な理解に対して否定的な一方で、その実践例としてのオートバイの整備は、道中、しつこいくらいにやっている。チェーンやタペット、キャブ等を、毎日と思える程の頻度で調整している。もう一台のBMWの方は、オーナーのジョンのロマン的な性格のせいもあり、簡単な点検もしなかったようなので、当時のオートバイの精度が今と比べて極端に低かったわけでもなさそうだ。なので、この調整の頻度は、著者の性格なのだと思う。他にも、古典的な理解に関する説明箇所で、飽きる程長いところもあり、筆者自身は、古典的な理解に強い指向があるようだ。それで、逆に、その故からか、古典的な理解には否定的な立場を取っていることになる。

で、話の流れに戻ると、以上のように、現代では圧倒的な力を誇っている古典的な理解の立場を相対化した上で、第二部の終盤では、この二つの理解の統合に向けて、次のような方向性が明らかにされる。

「理性の枝葉を拡大すること、さらにそれによって現在の芸術の流れのおおかたを掌握することが古典的理性の進む道なのだ。だが、答えは枝葉にあるのではない。その"根"にあるのだ」
「古典的理性の生みの親は古代ギリシャ人であったが、彼らは理性を駆使すること以上に、未来を予言するすべをも心得ていた。風に耳を傾け、それによって未来を予言したのだ。今では気違いじみたことのように思える。だがそれはなぜなのか?理性の生みの親ともあろう人々がどうして?」(P.291)

これは、6日目の友人のドウィーズ夫妻宅での会話なのだが、その2日後、パイドロスが以前勤めていた大学を訪れた際に、<<クオリティ>>という本書のキーワードが、劇的に、思い出されることになる。

なお、第二部の行程で泊まった場所は以下になる。ドウィーズ夫妻の家は、本文中にもある通り、なかなかよさそうなところだ。

4日目:Russell Motel
5日目:Hillcrest Cottages
6日目:ドウィーズ夫妻の家

本編
ネット上の関連情報
第一部 〜 古典的な理解とロマン的な理解
第三部 〜 <<クオリティ>>の探求
第四部 〜 パイドロスと筆者親子の運命

雑記より移行(07/2/28)

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