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禅とオートバイ修理技術
(ロバート M.パーシグ、めるくまーる)


□第一部

禅とオートバイ修理技術ここでは、17日間のツーリングの最初の3日間が描写されている。冒頭、いきなり、ライダーならではの視点の文章がある。

「もはや単なる傍観者ではなく、私たちは自然という大きな舞台のまんなかにいて、溢れんばかりの臨場感に包まれる。足下を唸るように流れてゆくコンクリートは、現実のものであり、足を踏みしめて歩く道路そのものである。ぼんやりとして焦点を定めることはできないが、それは確かにそこにあり、その気になればいつでもこの足を降ろして触れることができる。すべてのもの、すべての経験、これらは決してじかの意識から逸脱することはない。」(P.25)

ここに限らず、全体を通して、路上からの眺めや、現代の日常生活では、五感の中でもっとも虐げられている皮膚感(触覚)も含めた五感全てにに訴える風や空気への印象など、実際にオートバイに乗っている人ならば、共感できるであろう記述が多い。
以下は、40度以上の気温の中を1日走った後の夕方に出会った雨に関する文章。湿度の違いで、日本で同じ経験をすることはないが、フレッシュな感覚、こみ上げてくるうれしさは、日本のツーリングでの別様のシーンの経験から、心に沁みつつ納得することができる。

「何もかも鮮やかに蘇える。どんなに待ち望んでいたことだろうかーこの新鮮な雨を。服は濡れ、ゴーグルに小さな雨粒がつく。ひんやりして、とても気持ちがいい。やがて雨雲が通り過ぎ、雲のかげから太陽が顔を出す。松林と小さな牧草地が、太陽の光にきらめいている。陽の光を受けた雨粒がキラキラ輝いているのだ。」(P.169)

ツーリングと共に、記憶を奪われる前の自分(本書ではパイドロスと呼ばれている)が考えていた思想への探求も始められる。第一部では、その序章として、2種類の人間の理解のパターンが提出される。

「私は人間の理解を二つに分類したいー古典的な理解とロマン的な理解である。」(P.134)

各々に関しては、以下のような説明がある。

「古典的な理解は、第一義的に世界を根本形式そのものであると見なす。だが、ロマン的な理解は、世界を本来直接的な印象によって捉える。もし仮に、ロマン的な考え方をする人間に、何かのエンジンや、機械製図や、電気配線図などを見せたとしても、大して興味を抱きそうもない。...反対に、古典的な人間に、それと同じ青写真や配線図を見せたり、それに関する詳しい説明をしてあげたりすれば、おそらく見ているうちに魅せられてしまうだろう。」
「ロマン的な理解様式は、本来インスピレーションと想像力に富み、直観的かつ創造的である。感情が事実よりも優位を占めている。「科学」と対置されるときの「芸術」は、しばしばロマン的である。芸術は、理性あるいは法則によって前進するわけではなく、感情、直観、そして感覚的分別(引用者注:esthetic conscienceの翻訳)によって前進する。」
「古典的な理解様式は、これとは対照的に、理性または法則によって前進する。すなわち、この理性や法則そのものが、思考や行為の根本形式なのである。」(P.135)

つまり、古典的な理解とは、対象を概念化した上でそれを構成する要素に分解し、各々の要素を成り立たせている法則を抽出することによって、対象の複雑さを、幾つかの基本的な原理(根本形式)に還元する分析的な方法のこと。この理解は、言語や数式によって行われる。
一方のロマン的な理解とは、対象そのものとその対象を可能としている原理も合わせて、その対象を、直観的かつ総合的に一気に把握しようとする方法。こちらは、イメージがその手法の中心となり、古典的な理解とは違って、論理的な矛盾も克服してしまう場合がある。
まぁ、引用文にもある通り、科学と芸術と考えておけばいいのだと思う。
そして、筆者は、この二つの理解のパターンの現状を以下のように考えている。

「結局現代に至って、古典的な文化とロマン的な反文化(引用者注:countercultureの翻訳)との間に、一本の巨大な亀裂が生じてきた。すなわち二つの世界がしだいに隔絶し、互いに憎しみを深めているのだ。...誰だってそんな状態を望みはしない。」(P.137)

そして、パイドロスは、この亀裂を埋め合わせようとしていたらしい。なので、本書では、この二つの理解の統合が探求されていくことになる。

では、オートバイは、この探求と、どのような関係があるのだろうか。

「オートバイに乗ることはロマン的であるけれども、オートバイのメインテナンスはまったく古典的である」(P.136)

オートバイに乗っている時に感じる様々な印象や感覚は、言葉では説明しきれないロマン的なものである一方、オートバイを機械として捉えた場合は、工学の典型的な産物として古典的なものになる。
ここで、特に重要なのがロマン的側面であって、この探求の旅が車では成り立たない理由がそこにあるようだ。

「車は、いわば小さな密室であり、いったん慣れ親しんでしまえば、自然のなんたるかを知りえない。窓の外を移りゆく景色は、テレビを見ているのと何ら変わりがない。私たちは、ただ枠のなかを流れてゆく景色を漠然と眺めている受身の観察者にすぎないのだ。」(P.25)

自分がオートバイに乗り続けている理由も、このロマン的側面にあるのは間違いない。
一方の古典的な側面に関しては、最近は、整備もディーラーに任せきりで、正直、興味が無くなってきてはいるが、確かに、この矛盾した二面性というところにも魅かれているような気もする。なるほどねぇ。

本編
ネット上の関連情報
第二部 〜 科学は本当に正しいのか
第三部 〜 <<クオリティ>>の探求
第四部 〜 パイドロスと筆者親子の運命

雑記より移行(07/2/28)

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