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哲学の東北
(中沢新一、青土社)


哲学の東北東北なるものを、中沢新一が、どう捉えたのか。古本屋で、たまたま、見掛けて、購入したのが「哲学の東北」。

「東北」とあるが、日本の東北地方だけを言っているわけではない。日本では、たまたま、「東北」が、東北地方と合致しているということのようだ。

「東北はどこの世界にもある、というのが僕の考えです。日本の東北だけではなしに、ヨーロッパの東北、世界の東北というのが存在しています。...それに、地理の上のことだけではなく、映画の東北、音楽の東北、料理の東北、政治の東北、そして、哲学の東北というものがあります。...しかし、日本の場合、そのヴァーチャルな東北は、偶然にも、地理上の東北として、出現したわけです。」

では、その「東北」とは何だろう。

「たとえば、哲学的な思考は、たちまち肉体を離れて、純粋思考の中に入ってしまうものですが、東北的なものは、それに抵抗をしめします。不透明な肉体的なものが、純粋思考の歩みにあらがって、それを妨害しようとしているのです。...肉体から離れた、明晰な魂やイデアなどを、考えようとする傾向に、東北的なものは、つねに抵抗するのです。...肉体をかきわけながら、表面へ向かって現れでてきて、その肉体的なものの抵抗感というのは、最後まで消えることがない。... 肉体的なもの、大地のようなものをかきわけ、過ぎ越してくる、そういう感覚が、最後まで残るのです。...それをむしろダンディなことだ、ととらえるのが、東北的センスと言えるのではないでしょうか。」

自分は、東北が好きで、時間さえできれば、オートバイで、東北に向かう。というのは、簡単には言えないけど、東北には、「リアリティ」があるような気がしているからだ。人間の理性や論理といった「純粋思考」だけでは到達できない深さ、霊性といってもいいかもしれないような何かを求めてのこと。これは、今の日本では、東北以外で感じるのは難しいような気もする。
著者が、「肉体的」と言っているのは、自分が考えている「リアリティ」と共通点があるように感じる。得体の知れない生々しさ。木々の葉の擦れる音や雲の流れ、霧の漂う草原、コーナーで冷んやりと感じる気温の変わり目、テントを叩く雨の音、等の感覚があって、初めて感じられる何ものか。
最近では、今年のゴールデンウィークのツーリングで、宮沢賢治を媒介にして、そういうものに、少しだけだけど、触れたような気がした。
帯にある「夢見る大地の唯物論」の唯物論とは、そんな「リアリティ」にはモノを経由するしかないんだよということを言っているのだと思う。
そして、そういう、根源的なものに触れ得たものだけが知っている、他者への開かれを体現した宮沢賢治。本書の前半の大きなテーマである賢治は、そういうオープンな可能性として位置付けられている。

というような趣旨は分かるのだが、内容は、対談が中心で、話題は、様々な世界へ飛んで行く。ロシアのアバンギャルドから、舞踏、仏教、ヘーゲル、稲垣足穂、アインシュタイン、四次元、贈与、ラカン、修験道、女性、農業、等々と目まぐるしい。中沢節が、炸裂している。
なので、読後の感想は、分かったような、分からないような微妙な感じ。そのまま、放っておくと、読んだことを、全部、忘れそうな気がする。
が、本棚に置いておいて、時々、手に取りページをめくれば、刺激的な視点が得られそうな、そんな本だ。

新規作成(07/10/5)

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