ホーム > 本棚 > 精霊の王


精霊の王
(中沢新一、講談社)


精霊の王先月の甲府・秩父ツーリングでは、たまたま、釈迦堂遺跡博物館に立ち寄った。で、そこで見掛けた、土器に埋め込まれた顔がどこかで見たことがあるなと感じ、思い出したのが、この「精霊の王」。その顔は、表紙にある。
土器の顔はとても印象的で、縄文人は、何故、このような顔を創ったのだろうかと素朴に感じた。そこで、この本には、その答えが書いてあるに違いないと思い、読み始めたのだが、それは、新石器時代にまで至り、また、全世界に広がる人類の精神の探求行の末に描かれていた。
その神秘性やスケールの大きさはSFのようだし、一貫した視点を通して解説される日本の文化や政治体制については、そいうことだったのか!という推理小説のような面白さに満ちている。早く先が読みたくて、字を追いかけるのがもどかしいくらいだった。

本書では、シャグジやシャクジン等と様々な名前で呼ばれ、その存在が縄文時代にまで遡られる精霊を追いかけている。現代にも残っている石神や諏訪地方のミシャグチ神、中世の芸能の守護神である宿神(シュクジン)が、シャグジの痕跡だという。そのような数々の痕跡は、「野生の思考」と呼ばれるアナロジーを積み重ねる神話の論理によって、シャグジと結び付けられていく。
特に、本書で重要な役割を占める中世猿楽者の金春禅竹が書いた「明宿集」は、野生の思考によって読み解かれ、猿楽における「翁」概念は宿神であり、さらに、日本の神々は、その多様な現れであるとされる。

「宿神である「翁」の観念を、違う尺度(ゲージ)で動いているほかのいろいろな思考同士をいちど同じ尺度にあわせて、そこに対称性を発見したり、内面の共通性をあきらかにするための「ゲージ場」にしてみたら、千差万別百花繚乱のごときわが列島の神々の世界に、ひとつの統一的な理解をもたらすことができるのではないだろうか。「古層の神」によって、思想史の再編成が試みられた、といってもよい。...『明宿集』はこうして、「翁=宿神」を鍵概念にして、つぎつぎと神々の間に失われた対称性を発見していくことになる。」(P.150)

「かくして、『明宿集』は根源の神である「翁」の概念をもって、この列島に形成された宗教的な観念や思考のより分けをおこない、「古層の神」をめぐる縄文的な思考を内部に組み込んである神や仏をみつけると、それを「翁」と同じ構造をもつものとして、巧みに選別することができたのである。...スピノザの哲学が唯一神の思考を極限まで展開していったとき、汎神論にたどりついていったように、金春禅竹の「翁」一元論の思考も、ついにはアニミズムと呼んでもいいような汎神論的思考にたどりつくのである。これほどの大胆な思考の冒険をおこなった人は、数百年後の折口信夫まで、私たちの世界にはついぞあらわれることがなかった。」(P.198)

そして、シャグジ概念は、日本だけでなく、ユーラシア・環太平洋にまで及ぶ、人間精神に共通な古層に属するものとして、その存在が拡大される。
一見無関係と思われるもの同士をイメージによって結び付け、その裏側にある構造を炙り出す手法は見事。ちょっと強引だなぁというところもないではないが、ついつい、先を読みたくなってしまう。

本書の後半では、その痕跡を追ってきたシャグジ概念について、トポロジー的な観点から構造が解明される。ここでも、また、金春禅竹が重要な役割を果たし、その哲学者としての側面を表している著作「六輪一露之記」が使われている。シャグジは、空間的な何ものかであることが、前半で何度も語られるのだが、その意味は、ここでくっきりとした輪郭を持つことになる。

「...「翁」の背後には、目に見えない高次元の「シャグジ空間」が、まるで不思議な生き物のように呼吸をしたり、変身したり、動いたりしていることになる。それは目に見えない潜在的な空間の成り立ちをしている。そして、その内部には現実世界をつくりだす力と形態の萌芽がぎっしりとつまって、渦を巻いて絶え間なく運動をしている。潜在空間と現実世界との境界に形成される、薄い膜のようなものをとおして、不断に何かが出入りをおこなっている。...宿神=シャグジ空間から「翁」は出現し、現実の世界の中で優雅な舞いを見せたあと、ふたたびこの空間の内に帰っていくわけである。」(P.228)

「芸術にせよ、哲学にせよ、政治的思考にせよ、あらゆる活動の背後に「後戸」の空間があると理解してみると、いわゆる「日本的」な精神の構造が、異質な二種のトポロジーの二重並列的な共存としてできあがっていることに、気づかされる。背後にはクラインの壷状のもの、その前面には空虚な中心をもつトーラス状のもの。背後の壷が振動をおこさなければ、その前に立つトーラス状をしたものは、しだいに元気を失っていく。」(P.252)

シャグジ概念そのものは世界的な広がりを持つ一方で、このような空間の並列的な構造は日本的なものらしい。が、この点は、以下のような文章はあるのだが、記述が少なく、イマイチよく分からん。

「ヨーロッパ的な「たましいの構造」において、舞踏的・霊性励起的・動態的な原理が、「ディオニソス」の名前と結びつけられて、神性の構造の内部深くに埋め込まれていることは、よく知られている。ところが、私たちの「たましいの構造」にあっては、同じ舞踏的・励起的な原理は、神仏の内部にではなく、その背後の空間で活動をおこなうのである。ヨーロッパ精神が「入れ子」の構造をもつとしたら、私たちのそれは異質な二原理の「並列」でできている。そして、そのことが、日本人の宗教や哲学の思考の展開に、決定的な影響をおよぼしてきたのである。」(P.96)

「「後戸」の前には、光や啓蒙や秩序をささえる超越者たちが、神や仏の姿をして立つ。こうした超越者たちは、メビウスの帯またはクラインの壷の構造をもった宿神的空間を裂開して、それを二元論の思考の発生しやすい別のトポロジーに改造することによって、超越をめぐる思考が権力の思考と一体であるような環境をつくりだしてきた。天照大神や阿弥陀如来の清浄な光がこの世を満たす。するとそこに引き寄せられてきた二元論の思考が、汚れているもの、闇を背後に抱えたもの、カオスから生まれたばかりのものを、光の場から遠ざけておくべき、差別すべきものとして、新しく生み出してみせるのである。」(P.251)

そして、筆者は、シャグジ概念により、日本史の様々な側面について、一貫した解読を行う。宗教的側面では、天台本覚論とシャグジの出会い、本覚論を後戸から支える摩多羅神の正体、民俗的側面では、折口信夫に大きな影響を与えた沖縄の祭りの構造、そして、政治的側面では、中世において天皇制と当時は卑賤な階級でもあった芸能者が何故強い結び付きを持っていたのか。特に、天皇制については、現代のシャグジ概念の痕跡の東西日本におけるアンバランスさと関係している。また、アニミズムの由来、庭園や「幽玄」の意味についても考えられている。
ここでも、筆者の思考は冴え渡り、読んでいてワクワクする。

「人間と自然は一体になって、ひとつの全体性をつくりなしているという感覚や思考が強力なこの列島では、現世否定の出家でさえも、反自然のテーマを内蔵した二元論よりも、人間と環境をひとつの全体としてとらえようとする一元論への傾向のほうが、はるかに強かったところで、諸存在を巨大な統一のもとに包摂しようとする法華経の思想をなかだちにしながら、本覚論は発達したのだった。そして、その本覚論と芸能の徒の宿神的思考が、正面から出会ったのである。...「草木成仏」などは、本来のシャグジ的思考からすればあたりまえのことで、それを仏教哲学が肯定しはじめたという事態が、芸能の徒に本覚論に対する深い関心を呼びおこすことになったのだろう。そのために、世阿弥や禅竹が活躍した室町期になると、猿楽のみならず、立花から造園術や茶道にいたるまで、本覚論の表現をかりて、芸能の徒が自分たちのおこなっている芸能に内在する「哲学」を、たくみに語りだすようになった。」(P.118)

「そのトポロジーがまざまざと人々の思考に上がってくるのが、盆の祭りをはさんだ島の夏の祭りの期間なのである。このときには、クラインの壷の「口」にあたる洞窟や森の奥の出入り口が開き、そこをとおして潜在空間の豊かな生命や時空感覚が流れ込んでくる。人々の想像力もこのときは大きくふくらんで、現実の世界がニライと一体になって「世界」は全体を呼吸していることを実感できるようになるのである。しかし、その祭りの期間が終わるとき、内部と外部がひとつながりのクラインの壷や裏と表が一続きのメビウスの帯の形をした意識のトポロジーには、劇的な変化が発生するのだ。...するとそれまで一続きだった「内」と「外」が二つの領域として分離され、ニライの潜在空間は見えなくなっていく。死者の住む世界は、生きている者たちの住む島からは遠くに隔てられていく。そして、生きている者だけでできた現実の世界の空虚な中心には、日常生活を運行させるシニフィアンの秩序を守る御嶽の神が、ふたたび立ち戻ってくることになる。来年の夏の祭りに、...ニライとこの世、死者と生者の世界が一続きの連続を回復するまでは、島の宇宙では二元論が支配する。二元論を支えるのは空虚な中心で、そこに鎮座する神は権力の源泉となっていくだろう。」(P.248)

「ところが天皇には、その原始的な記憶をとどめる神話と儀礼が残されている。その神話には、王権というものが天上的な「超越者」から地上にもたらされたものなのではなく、この世界のもともとの「主権者」である自然の領域から奪い取って、人間の社会の内部に据え付けることによって生まれたという、その複雑な過程が簡明に表現されている。また、その儀礼には、海と山を活動の場とするおびただしい数の職人(非農業民)と芸能者の協力が必要となっている。...そこで私は、天皇には「自然的身体」や「政治的身体」とは別に、「宿神=翁的身体」という特殊ななりたちをした身体がある、と言おうと思う。芸能者と職人は、天皇のもつこの「宿神=翁的身体」を仲立ちにして、王権と密接に結びあうことができたわけである。...宿神は自然の内奥からほとばしる源泉の力に触れているために、一面では「聖性」をおびた神だったと言えるけれども、他の一面では、神話の過程が冷却したあとに出現してくる秩序の感覚からすれば、その神は秩序の維持にとっては危険な過剰をはらんでいることによって「賤性」に染まっているとも考えられた。この両義性こそが、差別の源泉である。...織豊政権をへて徳川幕府によって完成される近世的権力には、天皇王権にそなわっていた「宿神=翁的身体」は、もはや不必要である。...宿神の没落がはじまる。とりわけ、天皇の王権と結びついて「聖性」と「賤性」のふたつの性質を併せ持っていた、西日本の宿神を守護神とする人々は、社会の「端」や「境界」の領域に追い込まれていったのである。」(P.213)

「縄文の壷の中に宿っていたスピリットは、いまや農耕にとって重要な水源の樹木の内部に宿るスピリットへと、自分の姿を変化させた。人間と動物は違うものだという考えが広まり、おたがいの間の自由な行き来など不可能になりはじめていた社会の中で、シャグジの思考は、小猿になったり河童になったり狐になったりして、人間と動物の間をつなぐ中間的なカミの姿を、すすんで身にまとうようになった。」(P.301)

「立石僧や山水河原者は、庭園をつくる職人だ。...庭園の職人たちは、西洋のジャルディニエールたちのように、いきなり空間の造形にとりかかるのではなく、空間の発生する土台をなす「前-空間」を生み出すことから、彼らの仕事を開始する。「なにもない」と観念された場所に、庭園の職人はまず長い石を立てることからはじめる。この石は、...潜在空間からこちらの世界のほうに突出してきた強度(力)の先端をあらわしている。この先端の向こう側には、存在への意志にみちみちた高次元の潜在空間が息づいている。そして、この先端のこちら側には、人間が知覚できる三次元の現実世界が広がっている。庭園職人が「なにもない」空間に打ち立てるその立石は、まさに絶対の転換点となって、空間そのもののはじまりを象徴する。...立石の下には、宿神の潜在空間が揺れている。その揺れの中から、三次元をもった現実の空間の原型が押し出されてくる。」(P.262)

ところで、シャグジについては、現実世界を含めた全体的な構造の解明はある一方で、それ自体の説明は少ない。例えば、「シャグジまたはミシャグジの神は、柳田国男が解明しておいてくれたように、もともとは境界性をあらわす「サ」音と「ク」音の結合でできた、ある霊的な概念を表現している。この概念はおそらく縄文的な文化をベースとしながら、そこに稲作の技術を伴う弥生的な文化が結合していったときに形成されてくる、新しいタイプのハイブリッドな文化の中で、しだいに形づくられてきたもの...」(P.207)という程度の文章が幾つかあるだけ。
これは、思うに、シャグジが、あまりに単純過ぎるものだからかもしれない。その始めにあるのは、存在の驚きのようなものだったのではないか。そこらにある山や湖や川、花や木々、 動物や虫たち、岩塊や石ころ、そして、自分。このものたちは、何故、ここでこうしているのか。つまり、何故、世界は存在しているのか?
そして、シャグジとは、この存在の謎に対する回答としての、無から有を生み出す根本原理のようなものなのだと思う。
この原理にどのような内容を与えるかは、地域や時代により異なってきた。原始の人間にとっては、その回答に至るもっとも適当なアナロジーは、無から有が現れる生命の誕生だっただろう。なので、儀礼や芸術におけるシャグジの具体的な表象としては、生殖に関係する要素が利用され、本書にも、シャグジには胎生的イメージが纏わり付いていると何度も書かれている。また、誕生ということを考えれば、父性ではなく、母性的な面が強く押し出された筈だ。
時代は下ってキリスト教普及以降の西洋世界では、その原理は、神の創造とされ、また、近代哲学では、緻密な言葉により、その回答が編み出された。例えば、ウィトゲンシュタインは、それを語りえないものとしたが、 それは言葉を尽くした上でのことだったし、また、ハイデガーは、それを人間の意識による定立作用として、言葉を尽くして存在の分析を行った。
そして、一方の日本人は、西洋のような言葉ではなく、芸能や芸術で、その原理を表現してきたのだ。

「日本の列島に生きてきた人々は、西欧的な意味での「哲学」によって、自分の哲学を語ることはしなかった。そのかわりに芸能や芸術をとおして、それを表現してきた。金春禅竹のエクリチュールこそ、そのような意味での日本哲学の、極上の作品となったものなのだ。」(P.244)

また、無から有の生成においては、物質が重要な役割を果たすが、そういう観点では以下のような文章がある。

「具体的なマテリアルとともに思考が展開していると言う意味では、宿神的思考は、いわば唯物論の方角からつくりだされた一元論なのである。」(P.120)

「そこには出現の運動の感覚がはらまれている。肉体がしめす抵抗を押し分け、かき分けて、超越的なものが現実の世界に顔をあらわそうとする、エロティシズムの構造がなまなましい活動を行っている。」(P.156)

「コーラは「善なるイデア」の後戸に立って、同一性のうちに静止していこうとするその光の概念に、背後から動揺と振動を加えることによって、いわば観念にマテリアルな運動性を注入しようとしている。」(P.271)

なんだか、引用ばかりになったが、最後に、肝心の土器の顔に関しては、顔だけでなく、土器の全体から意味を考えている。簡単に言うと、土器の壷状の形態がシャグジ空間を表していて、顔は、そこから生まれ出てくる生命の増殖を表現しているとのこと。そう言われてみると、確かに、顔は子供のものに見える。なるほどねぇ。

新規作成(07/11/24)

ツーリング | キャンプ場ガイド | BMW R1150GS | 本棚 | その他旅行記 | 過去の雑記 | リンク
(c) Copyright teruyuki 2005-