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老人と海
(ヘミングウェイ、新潮文庫)


老人と海老人と海」は、ベトナム旅行に持っていく本を探して、本屋をうろうろしているときに、たまたま見掛けて買った本。行き先が南の島系のリゾート地なので、海の話がいいかなと思い、あと、よくよく考えると、これだけ有名な本をちゃんと最初から最後まで読んだことがないような気もして購入。
宿題の読書感想文を書くために読んだわけではありません。

内容に関しては、自分がとやかくいうようなものではないけど、鈎にかかった大魚にとどめを刺そうとしている以下のシーンは印象に残った。

「お前はおれを殺す気だな、老人は心のうちで思った。なるほどその権利はある。おい、兄弟、おれはいままでに、お前ほど大きなやつを見たことがない。お前ほど美しいやつも、お前ほど落ちついた気高いやつも見たことがないんだ。さあ、殺せ、どっちがどっちを殺そうとかまうこたない。
いけない、頭がぼうっとしてきたな、と老人は思う。頭をはっきりさせておかなければだめだ。しゃんとして、人間らしく苦痛を受けいれろ。いや、魚らしくかな、とかれは思った。」

相克の森」にも、主人公が、自分が熊になった夢をみるシーンがあるが、こちらも、自分と魚が入れ替わる、もしくは同一視されている。
神話には、自分と動物を同一視するような、現代の普通の人間ならば理解できない「論理」があるとのことだが(例えば、「対称性人類学」(中沢新一、講談社選書メチエ))、ここで、老人はその「論理」を経験している。

また、大魚を仕留めて港へ帰る間に、次のような老人の独白がある。

「魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ。」

こちらも、似たような内容が、相克の森にある。上記の「論理」と、自分が生きていくためには相手を殺さなければならないという罪の意識との間には関係があるような気がする。殺される相手を自分に見立てることで、仮想的に自分も殺されたことにする、または、自分の中に倫理を打ち立て、自分の欲望の一部を殺す。
前者に関しては、現代人でも似たような心理的傾向がある。例えば、自分の知合いが大病等の不幸に遭った場合、やりきれなさと同時に、自分だっていつ同じような目に遭うか分からないと考えて、折り合いをつけることがないだろうか。
後者に関しては、その倫理は、どういう形であれ神につながるものだと思われる。引用が前後するが、鈎にかかった大魚とやり取りしている間の以下の文章にある自然の威厳のようなものが、そういった神の原型なのかもしれない。

「あれ一匹で、ずいぶん大勢の人間が腹を肥やせるものなあ、とかれは思う。けれど、その人間たちにあいつを食う値打ちがあるだろうか?あるものか。もちろん、そんな値打ちはありゃしない。あの堂々としたふるまい、あの威厳、あいつを食う値打ちのある人間なんて、ひとりだっているものか。」

いずれにしろ、このような心的傾向により、人間は、死というものに気づいてしまって以来、自身の心理的葛藤を調停してきたのだと思う。
そして、以上のようなことを考えさせる本書は、やっぱり、名著なんだなぁと改めて感じたのでありました。

新規作成(07/3/22)

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