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解離性障害
(柴山雅俊、ちくま新書)


解離性障害たまたま、ネットの書評で見掛けて興味を持ったのが「解離性障害」。そのページには、「上のほうから自分の全身を見下ろすもうひとりの自分がいる」と書いてあり、これって、「彼岸の時間」にあった変性意識状態そのものだと思い読んでみた。

解離性障害の症状の一部に、表象幻視(幻覚)、気配過敏症状(誰もいないのに近くに誰かがいる気配を感じる)、体外離脱体験、同一性変容(交代人格の出現)、幻聴等があるとのことだが、これらは、確かに、変性意識状態と解離の症状は似ている。意識変容という名前の節もある。とすると、シャーマニズムなんて、解離の症状じゃんと言いたくもなる。が、両者が同じものなのか、それとも、別なものなのかは論証のしようがないし、論理的に考えて、同定は不可能な筈だ。なので、そんなことを追求するのはナンセンスなことなのだと思う。

それよりも、自分が感じたのは、解離の世界の豊さだ。症状となってしまうと大変に違いないが、傾向のレベルで留まれば、それは、人間に豊かな世界を見させてくれる。その一例として、作品に解離の主観的体験と類似したものが見出されるとして、宮沢賢治について一章を割り当てている。

「...解離を思い切って大きく捉えるならば、それは原始の心性や夢体験などの原初の意識と連続的につながっているだろう。さらにその周辺には芸術の創造、宗教体験など人間にとって根底的な意識の広大な領域がある。私が感じるのは、このような人間の根底的な意識領域と解離が、意識変容を媒介にしてきわめて近い関係にあるのではないかということである。私がいう意識変容とは医学が扱ってきた病的な意識変容を越えて、人間のもつ創造性、宗教体験、自然との交感、夢、原始の心性などさまざまな幻想領域とつながっている。私が賢治の幻想的な作品群から読み取ろうとしたのは、この意識変容であった。」(P.185)

そこでは、賢治を解離の病態と診断することはできないと書いているし、それはどうでもいいことだと思うが、引用されている小岩井農場や春と修羅を考えると、賢治の解離の傾向は納得してしまう。

そして、このような豊かな世界の源のひとつとして、筆者は、解離をひとつの能力と考えており、自分もその通りだと思う。

「一般人でこの夢中自己像視をしばしば経験している人は解離に通じる能力があると私は思っている。」(P.62)

加えて、解離の考察において引き合いに出される様々な概念も興味深い。
遍在する私という症状に関連して引用される、フローベールの言葉「小石だの、動物だの、絵だのをじっと見つめるあまり、そのなかへはいりこんでゆくような感じのすることが今までにも何度かありました。人間同士の通じ合いですら、これ以上に強烈ではありません。」(P.49)や、メルロ=ポンティの「眼と精神」からのアンドレ・マルシャンの「森のなかで、私は幾度も私が森を見ているのではないと感じた。樹が私を見つめ、私に語りかけているように感じた日もある......。私は、と言えば、私はそこにいた、耳を傾けながら......。画家は世界によって貫かるべきなので、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う......。」(P.53)という引用。そして、その延長にあるアニミズム的心性の洞察。
あらゆるものが主観性を帯びて体験される原初の意識との関連で、夢と覚醒の間の連続性をいう「夢は眼覚めている状態に付け加えられるものではない。夢の生という拡散した心的な生を限定し、集中し、緊張させることによって得られるのが眼覚めている状態である。」(P.103)というベルクソンの説。「想像上の友人と」グノーシス主義の救済において再会する「真実の自己」の関係(P.130)等...

自分の嗜好からすると、もう少し、理論的な面が多い方がいいなと思うが、まえがきには、解離の病態に苦しんでいる人たちに向けて書いたとあるので、それは仕方がない。
いずれにしろ、誠実に書かれている印象が強く残り、解離性障害について概要を知りたい人には良書と言えると思う。

新規作成(07/12/24)

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