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自我の哲学史
(酒井潔、講談社現代新書)


自我の哲学史自我の哲学史」は、西洋と日本における自我観について、それぞれの古今の哲学者や思想家に遡って、その違いを明確にすることにより、現代の日本人が置かれている自我の状況を検討する。

前半は、デカルトからカント、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、ブーバー、レヴィナス等の主要な哲学者の自我に関する学説を整理し、後半では、日本人の自我観として、宮沢賢治、西田幾多郎、夏目漱石の自我論を解説している。
全体の論調は、西洋における一貫した連続的な自我観と日本における分散した非連続的な自我観を対立するものとして捉え、現代の日本人は西洋的な自我観を強要され、窮屈さを感じているとしている。が、内容はここまで。そんな状況に対する処方箋までは書かれていない。

前半の西洋に関しては、主要な哲学者の学説を自我の観点から一貫して整理することにより、コンパクトにまとまった非常に見通しのいい西洋哲学史になっている。また、自我と自己の違いに関する文章は、目からウロコという感じだった。
一方の日本については、まづ、この3人が適切な選択かどうかが自分には分からなかった。が、それは置いても、一般の日本人が日々感じているストレスを解決するための手だてとしては、それぞれが少し原理的過ぎる気がする。
確かに、日本的な分散した非連続的な自我というものは、日本人のものの感じ方や考え方に、大きな影響があるとは思う。が、日常生活のレベルでは、また別の自我観があるのではないか。

日経新聞の玄侑宗久のインタビュー記事(2008/2/14夕刊)に、以下のような文章があった。

「自分というのは自然の分身、自然の一部なのです。だから自然と同じように刻々と変わる。でも今は個性、個性と言う。個性というのはキリスト教社会の考え方です。神様からいただいたペルソナ、つまりパーソナリティー(個性)が初めからある。これは元々日本人の発想にはなかったものです。昔の武士は元服すると名前を変えた。作家や画家には雅号もある。役割が変われば名前も変わるというのが日本人の考え方で、自分の中に八百万に住んでいるのです」
 「礼儀正しく勉強も運動もできる子がある日、近所の家の牛乳を盗んだとします。昔の人たちはこれを出来心として受け止め、良い子という評価は大きく変わらなかった。今だったらどうでしょう。おそらく、その子はとんでもない子という烙印(らくいん)を押される。...」

ここでは、日本人は、日常生活における異なる役割それぞれにおいて異なる自我を持ってきたとある。現実的なストレスの解決を考える場合は、このレベルの自我観の方がしっくりくるのではないか。

なお、このインタビューは、異なる役割における異なる自我を持つことが許されなくなってきているという論調だが、そうではなく、経済人としての役割の自我が肥大化して、他の役割の自我が侵食されているのが問題なのではないか。経済人としての自我が拡大することにより、自我≒経済人としての自我となってしまっているということ。
今は、高度経済成長時代のように、皆が何をやるべきか分かっていた時代と違って、経営者も含めて、皆が何をやるべきか分からない不安定な時代。こういう状況では、今の仕事も、いつどうなるか分からない。であれば、労働市場で高く売れるためには、もちろん、高いスキルが必要。が、それだけでなく、日々、前向きでタフで向上心のある理想的な社会人を意識していなければ。そして、その前提は、もちろん、経済人としての論理的で一貫した連続的な自我。そうでないと、売込みもできない。
また、グローバリズムの進展と共に、労働市場は厳しくなり、労働環境も悪くなっていく。あなたは、1/10の給料で働く中国人やインド人と比べて、10倍の価値を生み出しているのか。ますます、仕事に費やす時間は増える。
こうして、経済人としての自我は、否応なく拡大していくことになる。
経済人としての首尾一貫した自我が悪いというのではない。逆に、職場という限られた環境においては、自分は、そうあるべきだと思う。ロジカルに考えろ、なあなあで仕事をするな、と思う。そうではなくて、その役割の占める割合が大き過ぎるのが問題なのではないか。

話が逸れたが、そういうわけなので、本書のアプローチで処方箋を出すのは難しいと思う。なので、「自我の哲学史」というタイトルそのものの内容を期待すべきで、そうであれば、コンパクトにまとまっていて、とてもいい。

新規作成(08/4/6)

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