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赤を見る
(ニコラス・ハンフリー、紀伊國屋書店)


赤を見る北海道ツーリングで見たクッチャロ湖の夕陽のせいで、色とはなんぞやということが気になっていた時期に、たまたま、本屋で見掛け、タイトルに赤という色名が入っていたことと、装丁がよかったので、反射的に買ってしまったのが、この「赤を見る」。

内容は、目の前のスクリーンに映っている赤色を見るという単純な状況を分析することにより、感覚を手掛かりとして意識の本質に迫って行くというもの。色そのものはテーマではない。
意識という、何とも、掴み所のないものを探って行くにあたり、著者は、結論に至る核心部分では、進化論的アプローチを採用している一方で、要所々々の論証では、盲視や変視症といった視覚に関する特殊な症例や芸術家の直観等の様々な道具を持ち出している。著者は大学で、哲学と心理学を教えているようだが、相当な学識の持ち主のようで、上記のように、議論は理系・文系を問わず多岐に渡る。といっても、論旨はとてもシンプルで明快。また、講演の内容を書籍化したものなので、記述も平易。結論は、進化論的アプローチにありがちな逆説的なものだけど、文句なく知的興奮を味わえる一冊だと思う。

さて、以下は、本書の論旨。あまりに明快なので、自分なりの考えも入れつつまとめてみた。
ネタバレがあるので、ご注意の程を。

まづ最初に、感覚と知覚の区別が行われる。
スクリーンに赤が映っているという事実(a)に対して、主体が、何らかの所信や意見(赤は一様に映っている、スクリーンの幅は○○mくらい等)を持つことを知覚(p(a))としている。また、赤を見ることに対応して主体の中に発生する、何らかの意識の状態を感覚(b)と定義する。そして、感覚bに対しても、「きれいな赤」だとか「情熱的な赤」というような所信や意見を持つことができる(p(b))。このように、bとp(b)を分けて考えると、感覚は言葉では定義できないものになるので、権利上の存在ということになる。本書では、赤を見ることに相当する感覚を「赤すること」とも言っている。
さて、この感覚と知覚については、一般的には、次のような依存関係があると考えられている。

(1)事実aが主体の感官を刺激して感覚bが発生
(2)bの属性を主体が読み取りp(b)が発生
(3)p(b)を元に外界の事実を再構築することによりp(a)が発生

ところが、著者は、この依存関係を否定し、知覚と感覚に依存関係はなく、両者は事実aに対して並列的に発生するという。ここの論証で、視覚の特殊な症例が利用されている。
ところが、こうなると、知覚というのは何の役に立っているのだろうかということになる。人間が生きていくには、外界の事実に関わる知覚があれば十分ではないのか。
著者は、それに対して、人間は、感覚を持つことで意識を持つようになるとして、感覚の追求を続ける。

次に、感覚の内実を明らかにするために、「感覚経験=ニューロンの活動」という式が提出される。脳内のニューロンの活動が感覚経験を作り出すという意味だが、現代に生きる日本人ならば、そうなんだろうねと思うのが普通だろう。心の実体は脳の神経的な働きにあると理解している人が大半だと思う。が、それは、人間死ねば全てオシマイということも意味している。これに納得できる人がどれだけいるのか。また、よくよく考えると、日々、自身が抱く生々しい感覚の経験と、一方の脳内の神経を流れる電気信号との間には、大きな隔たりがあるのではないか。
結論をいうと、筆者は、この式を正しいと考えているのだが、本書では、新たな観点を入れつつ、その検証を進める。

まづ、左辺の感覚経験だが、著者は、これを人間の行為または表現の類似物と考える。例えば、「現在性」という観点から見てみよう。痛みという感覚を考えると、それ以前には存在せず、それを感じなくなれば消えてしまうという点で、感覚は常に現在時制的なものだ。一方の行為も、例えば、微笑みや笑いがその時限りで存在することを考えると同様だ。
著者は、このような観点を五つ挙げて、感覚経験と行為の類似性を説明している。

次に、右辺に関しては、人類の脳を進化論的に説明することにより、知覚と感覚と成り立ちを考える。

原始的な生物では、アメーバが刺激物に触れると触手を引っ込めるように、その反応は局所的に行われていた。が、進化に連れて、それは中央の神経回路を経て行われるようになる。
さらに進化すると、神経回路は複雑化し、世界を知ろうとし始める。単純な、刺激→行為ではなく、刺激→情報処理→行為という形で行動を行うためである。では、世界をどのように知るのか?
方法は二つ考えられる。ひとつ目は、既存の回路を利用するもので、こちらは、一連の刺激→行為の流れが発生したときに中央の神経回路に何らかの表象が発生するようにする。生物は、この表象により、自分に局所的に何が発生しているのかを知ることができ、その性質は、定性的で、現在時制で、一過性で、主観的なものになる。二つ目の方法は、感覚器官に入ってくる情報を一から分析する方法で、こちらでは、外の世界で何が起きているかを知ることができ、その性質は、定量的で、分析的で、恒久的で、客観的なものになる。そして、前者が感覚の原型で後者が知覚の原型となる。両者の進化は、以後、独立して行われることになり、これによっても、両者の並列性が傍証される。
さて、感覚に関しては、さらに先があって、中央の神経回路が複雑化するに連れ、刺激と行為が分離されるようになる。例えば、何らかの視力を持った生物の場合、刺激物に触れて手を引っ込めることに加えて、視力を刺激物の方に向けるといったように、中央の情報処理によって行為を担う器官が変わってくるためである。この分離がさらに進むと、刺激と行為は完全に離される形になる。刺激と行為の関係は、それらが接続されている固定の回路ではなく、中央の神経回路のスイッチによって随時変更されるためである。
こうなると、元々は、刺激→行為の流れに付随していた感覚が、刺激にのみ付随することになる。つまり、感覚は、「刺激→()」(()は無機能を意味している)という信号の流れに伴い発生することになる。ただ、「→()」の部分の実体としての神経回路は消滅したわけではなく、末端が蕨のようにループ状の形で残っており、この残存部分のために感覚は行為的な性質を残している筈である。

ということは、右辺のニューロンの観点において、感覚とは、かつての行為または身体表現の子孫ということになる。つまり、式の両辺とも、人間の行為と関係しており、行為という媒介を経ることによって、その因果関係が説明されたことになるのではないか。行為という新しい観点によって、上式の確からしさは高められたのではないだろうか。

このように、感覚を行為という人間の積極的側面に含めると、人間の社会生活にとって重要な要素である共感の発生に関してもうまく説明ができるようになる。著者は、その点も、ミラーニューロンという特殊なニューロンの発見等を活用しつつ記述しているが、本論ではないようなので、次に進もう。

さて、そろそろ、結末である。それでは、意識との関係で見た場合の感覚の特徴は何か。
それは、時間にある。感覚は、瞬間的なものではなく、時間的な厚みを持って経験される。その厚みの中で、感覚は、直前の自分自身に似た姿を保ちながら経験される。この辺りの議論では、芸術家の直観が活用されている。

再度、「感覚経験=ニューロンの活動」の式に戻ってみよう。時間的な厚みを持って経験されるという性質は、左辺に関するものである。この式は、感覚は、脳内のニューロンの活動によって作り出されることを意味していた。ということは、この時間の厚みなる特質は、ニューロンの活動で説明できる筈である。
再び、進化論的説明に戻ると、「→()」の部分の実体は、蕨のようにループ状になった回路の末端とのことだった。そして、このループ状の構造がポイントになる。感覚器官で発生した信号は、このループの部分に入ると、後は、自己生成的に、ある程度の時間の幅を持って、ループの中を回ることになる。これが、感覚が時間的な幅を持って経験されることの、ニューロンの観点から見た場合の理由になる。

そして、筆者は、このようなループ状の構造により、その中を流れる信号が自己生成的になることの理由を、自然淘汰としている。神経回路がこのような構造を持つこと、つまり、左辺のレベルでいうと、感覚を時間の厚みを持って経験することが、生存競争を生き抜くために有利だったというわけである。それは、何故か?

時間の厚みの中の一連の経験は、その経験を担っている筈の確固たる主体を想像させるからだ。はじめに主体が存在し、それが、感覚を経験するのではない。逆に、感覚こそが、人間に、感覚の一連の似姿を表象している筈の主体を想像させるのだ。「感じる、ゆえに我あり」というところか。
そして、この主体が意識であり、そして、自己へと発展して行く。
自己は、自身の目的のために、計画を立て、それに基づき行動し、目的を達成する。このような自己を持った人間は、主体を想像できず、その場限りの欲求によって生きる人間よりは、生存競争において遥かに有利だろう。

有史以来、人類は、自己を比類なく価値の高いものとしてきた。古くは、魂は不滅であるとか、客観は主観によって創造されるなどと考えられた。また、近年では、自己実現という言葉が盛んに喧伝されている。ところが、自己または魂や主観のような類似物が斯くも重要視されるのは、そう考える人間が、そうでない人間と比較して、生き残りやすいからというだけのことなのだ。

死ねば全てオシマイという結論も含めて、なんだか、身も蓋もない話のような気もするが、よく考えれば、確かに、自己の存在なんて怪しいし、それのために、神経症になる人だってたくさんいる。また、昨今の仕事は自己実現だ!みたいな決まり文句にもうんざりだ。
そう考えると、自己の価値の相対化というのは気分がいいような気もする。

ところで、本書には、「禅とオートバイ修理技術」からの引用がある。で、思ったのが、禅とオートバイ修理技術の<<クオリティ>>という概念が、「赤すること」に似ているということ。同じことを言っているのかもしれない。

雑記より移行(07/2/28)

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