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2007年2月後半

2月28日(水)

■ベルクソン(篠原資明、岩波新書)

ベルクソン前々からベルクソンのことは気になっていたのだが、これまで読んだことがなかった。哲学者というよりは詩人のようなイメージがあり、難解そうで手が出しづらかったのだが、岩波新書ならば読み易いだろうと思い、入門書として「ベルクソン」(篠原資明)を読んでみた。

が、内容は、ベルクソン入門ではなく、ベルクソンの生み出した概念を使った、著者の自説の展開。「われわれはどこから来たのか、われわれは何なのか、われわれはどこへ行くのか」というテーマに対して、ベルクソンの概念を使って答えていこうというもの。

そこで、持続、知覚と思い出、収縮、物質と運動、エラン・ヴィタール、痕跡と横断、笑いと社会、宗教と仮構機能、ヴェールと離脱、神秘系と機械系等の興味深い概念が出てくるのだが、これらの概念が、ベルクソンの思想全体の中でどのように位置づけられるのか、また、これで網羅されているのかは分からない。加えて、本書が、そのテーマの回答になっているのかどうかもイマイチ不明。なんだか、中途半端な感じ。

ところで、仮構機能とは、社会の解体に対抗するために人間が持っている想像上の表象を呼び起こす能力とある。例えば、人間が自分のことだけを考えて勝手に振る舞えば社会は成り立たないが、仮構機能は、それに対抗する協調性や自制心を強制する人格神を想像させたり、死を前にして無気力に落ち入らないために死後の世界を想像させる。前回の雑記で書いた「赤を見る」では、人間の共感を持つ能力や自己を想像する傾向を論証していたが、まさしく、この仮構機能と通じ合う。なんだか、偶然を感じるなぁ。


2月24日(土)

■赤を見る(ニコラス・ハンフリー、紀伊國屋書店)

赤を見るこの前の日曜日に、オルセー美術館展を見てきた。冷たい雨で荒れ気味の天気だったので、人が少ないことを期待して、午後いちに行った。結局、空いてはいなかったけど、出る頃には入場規制がされていたので、タイミングはよかったかな。
内容は、印象派の有名どころの作品が多く、分かり易い。自分としては、ルドンとモローの絵が幻想的でよかった。有名な「アルルのゴッホの寝室」は、本で見るより、黄色のイメージが強く、色鮮やかだったのは予想外だった。

で、本題は、モネの「ルーアン大聖堂」である。
一目見て、大聖堂が溶けていると思った。大聖堂は画面の大部分を占めているのだが、その白い建物の輪郭はぼんやり曖昧で輪郭がはっきりしない。建物の真ん中にある時計の針もぐにゃりとしており、今、何時なのか判別できない。大聖堂が意識の中に立ち上がってくる認識の生成の瞬間を描いているのかなぁ、てなことを思いながら見ていたのだが、この絵のことを書いているのをどこかで読んだことがある。が、思い出せない。うーん。美術館を出ても思い出せない。で、寒桜が既に咲いている上野公園を歩きながら、うんうん唸っているうちに閃いた。「赤を見る」(ニコラス・ハンフリー、紀伊國屋書店)だった。

昨年12月に、色に関する雑記を書いたが(おっと、続きを書かないと)、その頃は、夏の北海道ツーリングで見たクッチャロ湖の夕陽のせいで、色とはなんぞやということが気になっていた時期だった。で、その時、たまたま、本屋で見掛け、タイトルに赤という色名が入っていたことと、装丁がよかったので、反射的に買ってしまった。

内容は、目の前のスクリーンに映っている赤色を見るという単純な状況を分析することにより、感覚を手掛かりとして意識の本質に迫って行くというもの。色そのものはテーマではない。
意識という、何とも、掴み所のないものを探って行くにあたり、著者は、結論に至る核心部分では、進化論的アプローチを採用している一方で、要所々々の論証では、盲視や変視症といった視覚に関する特殊な症例や「ルーアン大聖堂」に表されているモネの芸術的直観等の様々な道具を持ち出している。著者は大学で、哲学と心理学を教えているようだが、相当な学識の持ち主のようで、上記のように、議論は理系・文系を問わず多岐に渡る。といっても、論旨はとてもシンプルで明快。また、講演の内容を書籍化したものなので、記述も平易。結論は、進化論的アプローチにありがちな逆説的なものだけど、文句なく知的興奮を味わえる一冊だと思う。

さて、以下は、本書の論旨。あまりに明快なので、自分なりの考えも入れつつまとめてみた。
ネタバレがあるので、ご注意の程を。

まづ最初に、感覚と知覚の区別が行われる。
スクリーンに赤が映っているという事実(a)に対して、主体が、何らかの所信や意見(赤は一様に映っている、スクリーンの幅は○○mくらい等)を持つことを知覚(p(a))としている。また、赤を見ることに対応して主体の中に発生する、何らかの意識の状態を感覚(b)と定義する。そして、感覚bに対しても、「きれいな赤」だとか「情熱的な赤」というような所信や意見を持つことができる(p(b))。このように、bとp(b)を分けて考えると、感覚は言葉では定義できないものになるので、権利上の存在ということになる。本書では、赤を見ることに相当する感覚を「赤すること」とも言っている。
さて、この感覚と知覚については、一般的には、次のような依存関係があると考えられている。

(1)事実aが主体の感官を刺激して感覚bが発生
(2)bの属性を主体が読み取りp(b)が発生
(3)p(b)を元に外界の事実を再構築することによりp(a)が発生

ところが、著者は、この依存関係を否定し、知覚と感覚に依存関係はなく、両者は事実aに対して並列的に発生するという。ここの論証で、視覚の特殊な症例が利用されている。
ところが、こうなると、知覚というのは何の役に立っているのだろうかということになる。人間が生きていくには、外界の事実に関わる知覚があれば十分ではないのか。
著者は、それに対して、人間は、感覚を持つことで意識を持つようになるとして、感覚の追求を続ける。

次に、感覚の内実を明らかにするために、「感覚経験=ニューロンの活動」という式が提出される。脳内のニューロンの活動が感覚経験を作り出すという意味だが、現代に生きる日本人ならば、そうなんだろうねと思うのが普通だろう。心の実体は脳の神経的な働きにあると理解している人が大半だと思う。が、それは、人間死ねば全てオシマイということも意味している。これに納得できる人がどれだけいるのか。また、よくよく考えると、日々、自身が抱く生々しい感覚の経験と、一方の脳内の神経を流れる電気信号との間には、大きな隔たりがあるのではないか。
結論をいうと、筆者は、この式を正しいと考えているのだが、本書では、新たな観点を入れつつ、その検証を進める。

まづ、左辺の感覚経験だが、著者は、これを人間の行為または表現の類似物と考える。例えば、「現在性」という観点から見てみよう。痛みという感覚を考えると、それ以前には存在せず、それを感じなくなれば消えてしまうという点で、感覚は常に現在時制的なものだ。一方の行為も、例えば、微笑みや笑いがその時限りで存在することを考えると同様だ。
著者は、このような観点を五つ挙げて、感覚経験と行為の類似性を説明している。

次に、右辺に関しては、人類の脳を進化論的に説明することにより、知覚と感覚と成り立ちを考える。

原始的な生物では、アメーバが刺激物に触れると触手を引っ込めるように、その反応は局所的に行われていた。が、進化に連れて、それは中央の神経回路を経て行われるようになる。
さらに進化すると、神経回路は複雑化し、世界を知ろうとし始める。単純な、刺激→行為ではなく、刺激→情報処理→行為という形で行動を行うためである。では、世界をどのように知るのか?
方法は二つ考えられる。ひとつ目は、既存の回路を利用するもので、こちらは、一連の刺激→行為の流れが発生したときに中央の神経回路に何らかの表象が発生するようにする。生物は、この表象により、自分に局所的に何が発生しているのかを知ることができ、その性質は、定性的で、現在時制で、一過性で、主観的なものになる。二つ目の方法は、感覚器官に入ってくる情報を一から分析する方法で、こちらでは、外の世界で何が起きているかを知ることができ、その性質は、定量的で、分析的で、恒久的で、客観的なものになる。そして、前者が感覚の原型で後者が知覚の原型となる。両者の進化は、以後、独立して行われることになり、これによっても、両者の並列性が傍証される。
さて、感覚に関しては、さらに先があって、中央の神経回路が複雑化するに連れ、刺激と行為が分離されるようになる。例えば、何らかの視力を持った生物の場合、刺激物に触れて手を引っ込めることに加えて、視力を刺激物の方に向けるといったように、中央の情報処理によって行為を担う器官が変わってくるためである。この分離がさらに進むと、刺激と行為は完全に離される形になる。刺激と行為の関係は、それらが接続されている固定の回路ではなく、中央の神経回路のスイッチによって随時変更されるためである。
こうなると、元々は、刺激→行為の流れに付随していた感覚が、刺激にのみ付随することになる。つまり、感覚は、「刺激→()」(()は無機能を意味している)という信号の流れに伴い発生することになる。ただ、「→()」の部分の実体としての神経回路は消滅したわけではなく、末端が蕨のようにループ状の形で残っており、この残存部分のために感覚は行為的な性質を残している筈である。

ということは、右辺のニューロンの観点において、感覚とは、かつての行為または身体表現の子孫ということになる。つまり、式の両辺とも、人間の行為と関係しており、行為という媒介を経ることによって、その因果関係が説明されたことになるのではないか。行為という新しい観点によって、上式の確からしさは高められたのではないだろうか。

このように、感覚を行為という人間の積極的側面に含めると、人間の社会生活にとって重要な要素である共感の発生に関してもうまく説明ができるようになる。著者は、その点も、ミラーニューロンという特殊なニューロンの発見等を活用しつつ記述しているが、本論ではないようなので、次に進もう。

さて、そろそろ、結末である。それでは、意識との関係で見た場合の感覚の特徴は何か。
それは、時間にある。感覚は、瞬間的なものではなく、時間的な厚みを持って経験される。その厚みの中で、感覚は、直前の自分自身に似た姿を保ちながら経験される。モネの芸術的直観が、ここで活用されている。

再度、「感覚経験=ニューロンの活動」の式に戻ってみよう。時間的な厚みを持って経験されるという性質は、左辺に関するものである。この式は、感覚は、脳内のニューロンの活動によって作り出されることを意味していた。ということは、この時間の厚みなる特質は、ニューロンの活動で説明できる筈である。
再び、進化論的説明に戻ると、「→()」の部分の実体は、蕨のようにループ状になった回路の末端とのことだった。そして、このループ状の構造がポイントになる。感覚器官で発生した信号は、このループの部分に入ると、後は、自己生成的に、ある程度の時間の幅を持って、ループの中を回ることになる。これが、感覚が時間的な幅を持って経験されることの、ニューロンの観点から見た場合の理由になる。

そして、筆者は、このようなループ状の構造により、その中を流れる信号が自己生成的になることの理由を、自然淘汰としている。神経回路がこのような構造を持つこと、つまり、左辺のレベルでいうと、感覚を時間の厚みを持って経験することが、生存競争を生き抜くために有利だったというわけである。それは、何故か?

時間の厚みの中の一連の経験は、その経験を担っている筈の確固たる主体を想像させるからだ。はじめに主体が存在し、それが、感覚を経験するのではない。逆に、感覚こそが、人間に、感覚の一連の似姿を表象している筈の主体を想像させるのだ。「感じる、ゆえに我あり」というところか。
そして、この主体が意識であり、そして、自己へと発展して行く。
自己は、自身の目的のために、計画を立て、それに基づき行動し、目的を達成する。このような自己を持った人間は、主体を想像できず、その場限りの欲求によって生きる人間よりは、生存競争において遥かに有利だろう。

有史以来、人類は、自己を比類なく価値の高いものとしてきた。古くは、魂は不滅であるとか、客観は主観によって創造されるなどと考えられた。また、近年では、自己実現という言葉が盛んに喧伝されている。ところが、自己または魂や主観のような類似物が斯くも重要視されるのは、そう考える人間が、そうでない人間と比較して、生き残りやすいからというだけのことなのだ。

死ねば全てオシマイという結論も含めて、なんだか、身も蓋もない話のような気もするが、よく考えれば、確かに、自己の存在なんて怪しいし、それのために、神経症になる人だってたくさんいる。また、昨今の仕事は自己実現だ!みたいな決まり文句にもうんざりだ。
そう考えると、自己の価値の相対化というのは気分がいいような気もする。

ところで、本書には、「禅とオートバイ修理技術」からの引用がある。で、思ったのが、禅とオートバイ修理技術の<<クオリティ>>という概念が、「赤すること」に似ているということ。同じことを言っているのかもしれない。


2月22日(木)

■エリック・ホッファー自伝(エリック・ホッファー、作品社)

エリック・ホッファー自伝禅とオートバイ修理技術」のことを何となく検索していたら、「エリック・ホッファー自伝」(エリック・ホッファー、作品社)という本に言及があることを知った。
エリック・ホッファーという名前は初めてだったので、買う前に、アマゾンで本書の説明を読んだのだが、驚いた。こんな人がいたんだ。

若い頃は、季節労働者、金鉱探しとしてカリフォルニアを転々とし、40歳からはサンフランシスコの港湾労働者、以後、港で働きながら執筆活動を行う。季節労働者の頃の移動は、徒歩かヒッチハイクか貨物列車、泊まるところがなければ寝袋で寝るという生活で、自らも、「放浪者として過ごした」と書いている。で、その合間に、多分、図書館が中心だと思うのだが、様々な分野の本を読んで独学で勉強をしている。

その放浪振りは徹底していて、例えば、ひょんなことで手に入れた柑橘類研究所での仕事のチャンスを、「私は本能的にまだ落ち着くべきときではないと感じ、放浪生活に戻った。」として、捨てている。うーん、格好いいではないか。芭蕉の「日々旅にして、旅を栖とす」を地で行っている。

また、「月山」の著者も思い出される。著者の森敦も、光学工場やダム工事現場、印刷屋で働き、その後、月山を発表している。どちらも、仕事への取り組みは真面目で、そこから何かを発見しているのだが、ひとつの仕事への執着はない。気が変われば、仕事も変えるし、また、ある程度の蓄えができると、無理をして働こうとはしない。自分のような普通のサラリーマンとは正反対の生き方だ。
本書の最後に掲載されているインタビューで、エリック・ホッファーはこう言っている。

「私のいう仕事とは、生計を立てるためにする仕事のことではありません。われわれは、仕事が意義あるものであるという考えを捨てなければなりません。この世の中に、万人に対して、充実感を与えられるような意義のある職業は存在しないのです。...産業社会においては、多くの職業が、それだけを仕上げても無意味だとわかっている仕事を伴っているのです。そういうわけで、私は、一日六時間、週五日以上働くべきではないと考えています。本当の生活が始まるのは、その後なのです。」

さて、小難しい話は置いておくとして、本書で一番興味深い部分といえば、季節労働者として働いていたときに出会った様々な人物像にあると思う。思わず引き込まれるような逸話がたくさんあるのだが、この出会いは、キャンプ・ツーリングでの出会いと似ているなと思った。
ただ単に、テントが隣り合っていたというだけの理由で会話が始まる。そして、気が合えば、自分とは違う境遇や価値観の人達と一晩話をし、翌日には別々の道を辿る。
最近は、いろいろな理由から、そんな機会も減っていると思うが、それが、キャンプ・ツーリングの大きな楽しみだと思う。

あと、禅とオートバイ修理技術への言及は、ちょっと的外れで残念。


2月18日(日)

■禅とオートバイ修理技術(ロバート M.パーシグ、めるくまーる)(8)

禅とオートバイ修理技術ようやく最後まで読み終わった。
本書の内容は、<<クオリティ>>の探求を軸にして、東洋思想、テクノロジー、仕事に対する心構え、孤独、家族...、そして、オートバイと多岐に渡っている。その中でも、最大のテーマは、現代の「醜さ」の根本的な原因を求めることにある。そのために、パイドロスは、古代ギリシャ思想にまで遡り、結局、西洋的思考の根幹とも言える二元論にその原因を発見した。禅やらダルマ等の東洋的な概念も出てくるが、それは本筋ではない。<<クオリティ>>が、そのような東洋的なものに似ているだけで、あくまで、探求の対象は西洋的思考ということになる。

そして、本書の最大のおもしろさは、<<クオリティ>>という思想探求のドラマにあるのだと思う。通常、なんらかの思想が説明される場合、それは既に出来上がったひとつの体系として説明される。それが、思想家のどのような問題意識から生まれたのか、またどのような経緯で深められて行ったのか、探求の間にはどのような生活があったのか、というような生々しいところは説明されない。
しかし、本書では、そのような点が、筆者の特異な人生、親子、ツーリング等と絡められて、ドラマチックに綴られている。また、<<クオリティ>>についても、正直、よく分からないところはあるが、その問題意識は極めて現代的で、本書が書かれてから30年以上たっている現在でも、古びている感じはない。オススメの本だと思う。

が、残念なことに、翻訳がよくない。正直、イマイチだと思う。いちいち、あげつらうことはしないが、特に、思想の探求部分がよくない。自分の場合、ここではこういうことが言いたいんだろうなという予想を持った上で、文章を読み、意味が掴めないところは原文に当るという形で読み進めた。
例えば、第四部のプラトン批判のあたりは、ハイデガーの西洋形而上学批判とほぼ同じ構図になっている。ハイデガーの場合は、本質存在(≒形相)と事実存在(≒質料)の分離がプラトンから始まり、これが自然を人間の目的のための単なる材料と見なす反自然的な知の淵源であると批判した。(「 ハイデガーの思想」(木田元、岩波新書))
このように、ある程度、内容を想定しながら読むと、大抵は、納得することができたが、逆に言うと、哲学に不慣れな場合は、翻訳文だけから、意味を読み取るのは難しい気がする。

さて、それでは、最後に、本書は、特に、ライダーにとっては、どのように楽しめるのだろうか。
自分は、かねがね、ツーリングの大きな楽しみのひとつは、様々な場面で感じるリアリティにあると思ってきた。著者の場合は、もう1人の人格が自分の中に居るのではという特殊な境遇のために、人一倍、そのようなリアリティに対して敏感だったのだと思う。それもあるのか、本書には、実際に走った人でないと書けないような細かいが実感のある出来事が随所に散りばめられている。この辺りの感覚は、日米の差はあまりないのかもしれない。ライダーならば、ニヤリとできるところがたくさんある筈だ。
例えば、自分は、以下の文章から、ゴールデンウィークの四国ツーリングを思い出した。

「なぜか山々のひだも独特の重なりを見せているー実にみごとだ。道はくねくねと蛇行し、カーブにかかると右に左に傾斜する。これほど優雅な気分を味わったことがあるだろうか。灌木の柔らかい青葉や、道に覆いかぶさる樹木の枝に触れそうになりながら、バイクは快調に下り続ける。...そしてその向こうから、まだ目に見えぬ海の匂いが微かに漂ってくる・・・」(P.578)

(ようやくオシマイ)

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