ホーム > 過去の雑記 > 2007年1月後半

2007年1月後半

1月31日(水)

■禅とオートバイ修理技術(ロバート M.パーシグ、めるくまーる)(4)

禅とオートバイ修理技術第三部は、ドウィーズ宅近くでの登山から始まる。ドウィーズ宅で2日間過ごした後、友人夫婦のジョンとシルビアは自宅に帰り、その後は、著者とクリスの親子旅となっている。登山をする前には、2人の行き先は決まっていなかったが、登山の間に、著者が海を見たくなり、西海岸にハンドルを向けることになる。
この部では、<<クオリティ>>の探求が中心となり、それが登山と並行して行われるので、オートバイ・ツーリングに関する記述は少ない。また、山頂に向かい高度が上がるに連れて、<<クオリティ>>の探求も、抽象の高度が上がるため、難解になり、ここが、本書の中で、最も、挫折しがちなところだと思う。

さて、それでは、<<クオリティ>>とは何だろうか。その説明と思われる箇所を幾つか抜き出してみる。

「<<クオリティ>>は事物ではなく、事象(イベント)である。」(P.402)
「ただ連続する時間の一瞬、つまり事物が識別される前のほんの一瞬間には、知性を伴わないある種の知覚作用があるはずで、これを<<クオリティ>>の直感的認識と呼んだだけである。たとえば、木を見たと知覚できるのは、その木を見た後のことなのだから、見た瞬間と認識する瞬間との間には、必ず時間のずれが生じる。...知的に認識された木は、その時間のずれのため、常に過去から出ることはないので実在しない。知的に解された事物は何であれ、常に過去のなかにあるので、実在しないのだ。実在とは、知性的な処理を受ける前の、見たというその瞬間なのである。これ以外に実在はない。パイドロスが確認した<<クオリティ>>は、まさにこの前知性的な実在なのだ。」(P.415)

この引用からは、<<クオリティ>>とは、人間の知的行為の対象となる「素材」のようなものと考えられる。但し、この「素材」は、知性による処理を受ける前の、心にある何かなので、事実上というよりは権利上、その存在が想定されるものになる。つまり、何かを見たり、聞いたり、触ったりする際には、知性による解釈の前段階として、知覚作用により、「素材」となる何かが自分の中に取り込まれている必要があるということ。合わせて、知性が働くためにはその対象がある筈で、そういう意味で、その存在が想定されるが故に、権利上の存在ということになる。事実的な存在として、明示できるものではない。多分、ベルクソンの言う純粋知覚のようなものだと思う。

この辺りを、アメーバを使って説明している箇所がある。

「『<<クオリティ>>とは、一個の有機体が示すその環境への反応である』と言えば、一般の人々にも、真の<<クオリティ>>に関する知的な喩えとしてきわめて理解しやすいだろう。...たとえば、アメーバを水の入った皿にのせ、そばに一滴の硫酸をたらすと、(おそらく)アメーバは酸から離れる。もしアメーバが言葉を話せれば、硫酸のことは何も知らずに、「この環境はクオリティが乏しい」と言うだろう。もし神経系があれば、そのクオリティの乏しさを克服するために、かなり複雑な行動をとるだろうし、また以前の経験からいろいろな類似物ーイメージやシンボルーを探し出し、その環境の不快な性質を定義づけて、それを理解しようとするだろう。...<<クオリティ>>とは、私たちが生きる世界を創造するために環境が与える連続的刺激なのだ。」(P.421)

「もし神経系があれば」以下は人間のことを言っていると思うのだが、刺激または純粋知覚としての<<クオリティ>>を、知性が、その手段である言語(シンボル)やイメージにより解釈・意味付けを行う。つまり、<<クオリティ>>とは、全ての人間の積極的な知的行為に先んずる出来事(イベント)ということになる。
そうなると、<<クオリティ>>とは、人間にとって、全ての認識に先立つ根源的な何かであり、主観と客観さえも、<<クオリティ>>から発生することになる。出来事としての<<クオリティ>>に対して、知性が理解を行い、その結果、主観や客観が出来上がる。

「知的に確認された事物はすべてこの前知性的な実在から生じるので、<<クオリティ>>はその母であり、あらゆる主観と客観の根源なのである。」(P.416)

となると、<<クオリティ>>は、主観、客観が出来上がる前の何かであるために、理性による定義はできず、分析もできないということになる。

「だから、私たちに世界を創造させた源であるその存在を取り上げて、この世界に閉じ込めてしまうことなどとうてい不可能なのだ。<<クオリティ>>を定義することなどできることではない。無理矢理定義したとしても、決して<<クオリティ>>そのものを定義したことにはならない」(P.422)

このため、本書の残りの部分では、<<クオリティ>>は、『老子』の<<道>>や『ウパニシャッド』の「そは汝なり」、禅や無といった東洋哲学のキーワードで例えられることが多くなる。

以上のような<<クオリティ>>の高度な抽象化は、筆者親子の登山が頂上に到達したところでピークを迎え、次に、下山に合わせて、より日常的なシーンでの<<クオリティ>>の探求が進んで行く。
この探求でも、第二部に引き続き、古典的な理解、つまり、理性の働きに重点が置かれる。
ここでは、著名な数学者であるポアンカレが、自身が数学上の大発見をした時の経験を書き、またその発見という行為は一体何なのかを考えた書物に基づき説明が行われている。

「発見者の真の仕事は、さまざまな組み合わせのなかから巧みに選択することによって、無用なものを消去したり、あるいはむしろそうした組み合わせを作る煩瑣な手続きを省くことにある。だが、その選択を導く法則はきわめて微妙で繊細なので、言葉をもって正確に述べるのはほとんど不可能であろう。公式化するよりは、むしろ感じとるべきものなのである。そこでポアンカレは、この選択がいわゆる「閾下自我」によって行われるという仮説を立てた。この存在は、パイドロスが前知性的な気づきと呼んだものとピッタリ符合する。ポアンカレは、「閾下自我」は一つの問題に対して非常に多くの解答を見つめているが、意識のなかに入ってくるのは興味を引くものだけであると述べている。数学上の解答は閾下自我によって選択されるが、そのよりどころは「数学的美」、数と形式の調和、幾何学的優雅さにある。」(P.447)

ここで書かれている閾下自我による選択とは、勘や閃きのようなものを言っているのだと思う。つまり、数学のように高度に論理的な体系を成しているものであっても、その体系の起点となるところには、勘や閃きのような非合理的な何かが関与しており、しかも、そこには、美や調和や優雅さと言った、「価値的」なものがあるという。明記はされていないが、この勘や閃きも、また、<<クオリティ>>としての出来事と言うことができるようだ。

さらに日常的な世界では、オートバイの修理を例にして、<<クオリティ>>の考察を行っている。バイクのサイド・カバーのネジが外れず、ネジ溝を崩してしまった場合、どうすればいいのだろうか。

「ただじっと坐って、「観察」しているしかないのだ。...事実を求めてひたすら観察し続けるか、あるいはなすすべもなく長い間じっと手をこまねいているしかないのである。...ポアンカレが指摘したとおり、確かに観察するさまざまな事実から閾下の選択をしなければならないのだ。修理工の優劣の差は、数学者のそれと同様、さまざまな事実のなかから<<クオリティ>>に基づく優れた選択ができるかどうかにある。」(P.470)
「行き詰まって、心が無になった状態を再び考えてみると、それは最悪の事態どころか、願ってもない機会に遭遇したのである。何と言っても禅の修行僧は、公案や座禅によって多くの困難に直面し、みずからこの行き詰まりを招き寄せている。心を空しくすることによって、「初心」に帰り、「柔軟さ」を得るのである。」(P.476)

ひたすら観察をしていると現れる勘や閃きのようなものが、溝を崩してしまったネジへの対処方法を教えてくれる。心を無にして思い続けることにより、答えが与えられるのを待つということ。(ちなみに、喩えとして禅が持ち出されているが、「禅とオートバイ修理技術」というタイトルの意味はここで分かることになる)
ところで、古典的な理解の世界、つまり、理性の働きに閉じこもっていては、このような勘や閃きは生まれて来ない。

「...主体と客体という永遠の分離がなされると、それぞれの存在に対する考え方はしっかりと固まるが、「ネジ」という一つの部類が作り上げられることによって、それが冒すべからざるもの、目前の現実よりももっとリアルなものになってしまう。その結果、いかにしたら行き詰まらないですむかを思案することができなくなってしまう。」(P.478)
「...問題の根底に横たわっているものは、「客観性」つまり実在を主体と客体に二分する原則を強調し続けてきた合理性にあると思う。...二元的なものの考え方をすることによって、私たちは常に現実の上に人為的な解釈を重ね合わせてきた。結果的にそれは現実そのものからはるかに遠のいてしまった。こうした二元性を完全に受け入れてしまうと、修理工とオートバイとの間に存在する分離できないある一定の関係、つまり仕事に専心する職人気質といったものが失われてしまう。」(P.470)

上にも書いたように、<<クオリティ>>は主体と客体に先立つ出来事である。従って、<<クオリティ>>まで遡ることができれば、目の前の物体を、「連続する直接的経験」(P.478)に変え、硬直した「ネジ」というカテゴリーから解き放つことが可能になり、溝が潰れてしまったという問題に対処することができるようになる。そうすれば、溶剤を流し込むとかドリルを打ち込むといった対処法が思い付く筈だ。
日常的な言い方を使えば、何においても、常識に囚われない柔軟さが大切ということになるだろう。が、そう単純な話でもない。
ここで言っている常識とは、言葉や理性が作り上げた概念や体系(これまでの例だと、概念→鋼鉄、体系→物理学や論理学)のことになる。
現代においては、科学の大成功によって、理性が神のように祭り上げられ、理性の産物の概念や体系が絶対的な地位を占めてしまった。その結果、環境問題や社会的な様々な問題が発生しているように思われる。しかしながら、理性の産物は、説明可能という意味での明確さのために分かり易い一方、それが故に硬直化しており、理性をこのまま使うだけでは問題の解決はできない。「現代社会における危機の原因は、理性それ自身の本性に潜む遺伝的欠陥」(P.205)なのである。
そこに柔軟さを持ち込むのが、理性に先立つ出来事としての<<クオリティ>>である。典型的な理性の産物である数学でさえ、ポアンカレの例で説明された通り、根底には、勘や閃きといった非理性的な要素が含まれていた。実は、普通に言われている理性というのは、本来の理性全体の中の狭い範囲だけを指しており、ポアンカレの数学のような美や調和を持った体系を生み出すような理性は、非理性的な要素も含んでいるのだ。
この方向に、理性を拡大すること。つまり、<<クオリティ>>により古典的な理解(狭い範囲の理性)とロマン的な理解を統合することによって、柔軟さを取り戻し、問題の解決を図ろうというのがパイドロスの行程になる。

ところで、ここまで進んでくると、<<クオリティ>>の概念が、最初の純粋知覚のようなものから、勘や閃き等の無意識的な出来事にまで、その内容が広がってくる。そうすると、<<クオリティ>>って何だっけ?という気もしてくる。
が、人間の知性の自発的な働きとは関係なく、あたかも与えられたもののように、何処からかやって来る心的な出来事とすれば、大雑把に括れると思う。つまり、知性によって自ら行う分析や総合といった働きではなく、心の中に、理由はよく分からないまま発生するために、常に、驚きや不思議さが付きまとうもの。また、自分から積極的に作り出すことができないので、そういう意味で客観性を持っているものということだ。
まぁ、それにしても、<<クオリティ>>の内容が練れていないように思われた。実際、「Lila: An Inquiry Into Morals」という本で、引き続き、<<クオリティ>>が探求されているようだ。

ちなみに、<<クオリティ>>は、二種類の人間の理解に伴い、二つの相に分けられるとある。

「ロマン的な<<クオリティ>>は、常に瞬間的な印象と相関関係があった。また「堅い」(引用者注:=古典的な)<<クオリティ>>には、ある一定の時間にわたる多様な考察が必然的に伴っていた。ロマン的な<<クオリティ>>は、現在ーあらゆる事物の今、ここーであった。古典的な<<クオリティ>>が関係するのは、現在だけではなく、より広範に及び、そこには常に過去と未来があった。」(P.417)

ただ、この二つの側面は、<<クオリティ>>が分裂したものではなく、<<クオリティ>>の長短二つの時間相とされる(P.418)。上にも書いたように、<<クオリティ>>は、言葉による分析が不可能なため、二つに分類されることはない。そうではなく、いろいろな観点に応じて様々な見え方がする中で、このような二種類の見え方があるということだと思うのだが、ここら辺は、よく分からない。

さて、堅い話が続いたので、最後に、以下のシーンを引用しておこう。

「...レストランが見えたので、その正面にバイクを乗り入れ、旧式のハーレーの横に止める。手製の荷かごを取り付けたハーレーのオドメーターは三万六千マイルを示している。なかなかのロングツアラーだ。」(P.452)

そうそう、他の人のオートバイの走行距離って気になるんだよねぇ。

(つづく)


1月27日(土)

■生き延びるためのラカン(斎藤環、バジリコ)

生き延びるためのラカンwebで読んだことがある文章が本になっていた。

生き延びるためのラカン」(斎藤環、バジリコ)。

本屋で見掛けて、どこかで見たことがあるタイトルだなと思って、中身を読んで思い出した。以前、検索をしていて、たまたま引っ掛かって、読んだことがあった。

内容は、ラカンの体系的な入門書というよりは、ラカンを中心に置いた精神分析学の入門と、それに基づいた人間の理解への序奏という感じ。
ラカンと言えば難解で有名な精神分析家だが、本書は、分かり易く、これでもかという程、噛み砕いて説明がされている。冒頭部分に、「知的に早熟な中学生ならすいすい読める」とまである。まぁ、さすがに、そこまで易しいかは疑問だが、とにかく、人間が、いかに言葉の存在であるかが納得できる。また、ラカンの有名な三界(現実界、象徴界、想像界)に関しても懇切丁寧な解説があるが、この辺りは、特に現実界を中心にして、20世紀の思想の典型的な考え方になるので、そこが理解できるだけでも価値があると思う。また、自分の興味があるリアリティという概念に関しても示唆がある。

ところで、本書の内容は、もともと、webに連載されていたので、今でも、アーカイブ・サイトで見ることができる。以下のリンクをクリックして、表示されたページで適当なリンクを選択すれば、第1回の内容を見ることができる。他の回を見るためには、01.htmlの数字の部分を、0218に変更すればよい。

http://web.archive.org/web/*/http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/01.html

本には、全面改稿のようなことが書いてあるが、ざっと見た感じでは、本質的なところは、ほとんど変わっていないようだ。ただ、最後の第19章は、アーカイブ・サイトにはない。出版が決まってからの書き下ろしなのだと思う。

ちなみに、自分は、これから、何度も参照することになる文章だと思ったので、購入しました。オススメです。


1月20日(土)

■禅とオートバイ修理技術(ロバート M.パーシグ、めるくまーる)(3)

禅とオートバイ修理技術第二部では、イエロー・ストーン公園を経由して、パイドロスの友人で画家のドウィーズ夫妻宅を訪れる。
2台のオートバイは、公園に入る前に、山岳道路で山越えをしているのだが、その頂上の標高が、なんと、11,000フィート。富士山より、500m程低いだけ。当然、気温は低く、頂上の近くでは、12フィートの雪の壁の間を走っている。以前の雑記で書いたリンクにある写真を見ると、乗鞍スカイラインのスケールを大きくしたような感じなのかもしれないな。
それにしても、2日前に40度以上の気温の中を走っていることを考えると、かなり、ハードなツーリングだ。

一方のパイドロスの思想に関しては、古典的な理解の方に重点を置いて、探求が進められる。
パイドロスは、古典的な理解に対しては否定的な立場を取っており、それを支える理性に関して、以下のような文章がある。

「現代社会における危機の原因は、理性それ自身の本性に潜む遺伝的欠陥である、とパイドロスならこう言ったであろう。だからこの遺伝的欠陥を取り除かなければ、危機は続くことになる。現代の合理的思考様式は、社会をより良い世界に変えてはくれない。...衣食住の必要が支配するかぎり、今後もこれは続くだろう。だが今や大多数の人々にとっては、衣食住の必要が他のすべてに優るということはない。古代ギリシャより受け継がれてきた理性の全構造は、今となってはもはや妥当なものとは考えられなくなっている。」(P.205)

加えて、理性の最大の成果のひとつと考えられる科学に対しても、その絶対的な真理性を否定している。

「物理学や論理学の法則、それに数の体系や代数置換の原理...こういったものはすべて幽霊さ。信じているからこそ、現実に存在しているように思えるだけだ」(P.74)
「引力の法則は人間の頭のなかにしか存在しないということさ!幽霊なんだ!」(P.76)

ここでは、科学が間違っていると言っているわけではない。もし、科学が正しくなかったら、何故、パソコンやらテレビやら飛行機等が、こんなにうまく動くのか。そういう意味では、科学は正しい。だが、それは絶対的な真理を捉えているわけではないということを言っている。
人類は、これまで、世界を説明する方法を幾つも発明してきた。神話、昔話、宗教、哲学、小説...、そして科学。この中でも、科学だけが、その真理性において飛び抜けているように思える。が、それは、その実用性が他の方法に比べて圧倒的に高いだけであって、だからといって、科学が絶対的な真理性を備えているということにはならない。
ここでは、そういう真理の相対性のことを踏まえて、物理学や論理学、引力の法則を「幽霊」と言っている。
加えて、さらに、パイドロスは、科学だけではなく、我々が日常生活で当り前と思っている通常の概念さえも幽霊としている。

「オートバイは、あらゆる構成概念の集積によって生まれた鋼鉄のシステムである。だが、鋼鉄には本来部分というものはないし、形もない...パイプ、ロッド、ガーダー、工具、部品など、これらはすべて一定の侵しがたい形を持っている。だからもともと形があるものだと思ってしまうのだ。だが、機械製造、鋳造、鍛冶、溶接などの仕事に携わる人は、「鋼鉄」に形があるなどとは思ってもいない。熟練した人であれば、鋼鉄を思いどおりの形にすることができる。形というものは、このタペットのように、人が考え、人が鋼鉄に与えるものなのである。...形はすべて、人間の精神によってもたらされるものなのだ。では、鋼鉄はどうか?何と、鋼鉄ですら人間の精神の産物なのである。自然の中には鋼鉄など存在しない。...自然のなかにあるのは、鋼鉄を生じさせる潜在的な物質である。それ以外は何も存在しない。では、その「潜在的なもの」とは何であろうか?これも人間の精神の産物に他ならない!すなわち、幽霊である。」(P.181)

これは、日常生活では当り前すぎて、実在に対応しているとしか思えないような普通の概念(ここでは鋼鉄)さえも、混沌としたカオスとしての世界から、実用的な目的のために、人間により恣意的に取り出されたものに過ぎないということを言っている。この概念(≒言語)の恣意性は、20世紀の初頭に言語学者のソシュールによって言語の本質とされた。ここから、20世紀の思想が、様々な方向に開花するのだが、そういう意味で、ここでパイドロスが言っていることは特別なことではない。20世紀の思想界では、常識と言ってもいいと思う。(例えば、「ソシュールを読む」(丸山圭三郎、岩波書店))

ところで、このように、筆者は、古典的な理解に対して否定的な一方で、その実践例としてのオートバイの整備は、道中、しつこいくらいにやっている。チェーンやタペット、キャブ等を、毎日と思える程の頻度で調整している。もう一台のBMWの方は、オーナーのジョンのロマン的な性格のせいもあり、簡単な点検もしなかったようなので、当時のオートバイの精度が今と比べて極端に低かったわけでもなさそうだ。なので、この調整の頻度は、著者の性格なのだと思う。他にも、古典的な理解に関する説明箇所で、飽きる程長いところもあり、筆者自身は、古典的な理解に強い指向があるようだ。それで、逆に、その故からか、古典的な理解には否定的な立場を取っていることになる。

で、話の流れに戻ると、以上のように、現代では圧倒的な力を誇っている古典的な理解の立場を相対化した上で、第二部の終盤では、この二つの理解の統合に向けて、次のような方向性が明らかにされる。

「理性の枝葉を拡大すること、さらにそれによって現在の芸術の流れのおおかたを掌握することが古典的理性の進む道なのだ。だが、答えは枝葉にあるのではない。その"根"にあるのだ」
「古典的理性の生みの親は古代ギリシャ人であったが、彼らは理性を駆使すること以上に、未来を予言するすべをも心得ていた。風に耳を傾け、それによって未来を予言したのだ。今では気違いじみたことのように思える。だがそれはなぜなのか?理性の生みの親ともあろう人々がどうして?」(P.291)

これは、6日目の友人のドウィーズ夫妻宅での会話なのだが、その2日後、パイドロスが以前勤めていた大学を訪れた際に、<<クオリティ>>という本書のキーワードが、劇的に、思い出されることになる。

なお、第二部の行程で泊まった場所は以下になる。ドウィーズ夫妻の家は、本文中にもある通り、なかなかよさそうなところだ。

4日目:Russell Motel
5日目:Hillcrest Cottages
6日目:ドウィーズ夫妻の家

(つづく)


1月17日(水)

■アウトライダー Vol.22アウトライダー最新号

今年になって、まだ、GSに乗っていない。この前の週末は天気がよく、用事もなかったのだが、風邪でダウン。次の週末は予定があるので、しばらく、GSには乗れそうもない...

さて、アウトライダーの今号の表紙は、京都。冬の号は、京都の特集が多い気がするな。

カラーページには、焚火台の特集があった。以前から欲しいと思っているのだが、自分の好みにフィットするものが、なかなか無い。というのも、パニアに入るコンパクトなものがいいのだが、現在手に入るそのようなものは、小さ過ぎて、使いにくそうなのだ。ギリギリ、パニアに入るくらいで、使う時にはそれなりの大きさになるものが欲しい。が、待っていても出てきそうもないので、今年は、割り切って適当なものを買ってしまうつもり。

ナチュラルツーリングは、最初のページの写真がいい。海岸に打ち上げられている流木が、なんとも、放浪感というか、最果て感というか、旅の雰囲気を醸し出している。文章は、毎度の通りだけど。

ところで、なんと、「日々のオートバイ」が、今号で最終回とのこと。復刊する前からの連載で、丁度、今号で100回目。なので、切れ目ということなのかな。ライダーならではの視点は当然として、その上、非常に細やかで、かつ、ちょっと捻った内容の文章は、毎号の楽しみだったけど、仕方がない。新たな展開に期待しましょう。長い間、お疲れ様でした。

ツーリング | キャンプ場ガイド | BMW R1150GS | 本棚 | その他旅行記 | 過去の雑記 | リンク
(c) Copyright teruyuki 2005-